小説「今日もいい天気」(44安楽椅子探偵ベッドディテクティブまで)


1、華燭

キラキラと輝くシャンデリア。

白いテーブルクロス。

澄ました顔で着席して、慣れない手つきで食器を操っている列席者のみんな。

あ、正式な食事マナーに慣れていないのは私もだわ。

苦笑いがこぼれる。

そうそう、私が夫とお見合いした時も、落ち着かなかったなあ。デパートのレストランで、なかなか2人で静かに話せるテーブルが取れなくて。周りの人が事情を知って気を利かせて、テーブルを空けてくれたんだったわ。

でも、みんな興味津々で私たちのことをチラチラ見ていたから「早いとこ決めちゃいます!」なんて言っちゃったんだったわねえ。ろくすっぽ夫の顔も見たいなかったのに。

「サエ?何を笑っているんだい?」

隣にいる夫が耳元で尋ねる。

「ん?ナイショ。」

とクスクス笑いを堪えながら返すと、夫は

「僕は君とのお見合いのことを思い出していたよ。レストランで、周りの人が大移動してくれた時のこと。」

と微笑みながら言う。

「あらっ、そうなの!実は私も…」

2人で忍び笑いをしていると、テーブルの向かいに掛けていた妹の若菜が、

「ちょっと、お姉ちゃん静かにしてよー、中島くんのスピーチが聞こえないじゃない」

と不満そうに注意する。

「あら、ごめんなさいねー」

「ごめんねー、若菜ちゃん」

2人で頭をかきながら謝る。

壇の横では、新郎新婦の小学校時代からの中島くんが緊張した面持ちで一生懸命スピーチしている。

「勝男くん、かおりさん、本日は誠におめでとうございます。両家の皆様にも心よりお慶び申し上げます…」

メガネがないと全然前が見えない中島くんは、原稿に顔を近づけて必死で読んでいる。

花沢さんが、

「中島くーん、がんばってー!」

と昔から変わらないダミ声で中島くんを励ますが、会場からはどっと笑いが起こって、中島くんはかえって緊張が強くなってしまったようだ。

「本日はこのような華やかな席にお招きいただき、ありがとうございます。甚だ僭越ではございますが、新郎新婦両方の小学校からの友人として、ひと言ご挨拶申し上げたく存じます。」

中島くんは、気を取り直すようにお水を一杯飲んでから、再び原稿を読み始める。

「僕はいつも磯田くんを羨ましいと思っていました。だって、磯田くんは、スポーツは万能、明るくて楽しくて気は優しい、だから女の子にはモテるし。」

「ある時、僕はおじいちゃんの掛け軸にインクでシミを作ってしまったことがありました。うちのおじいちゃんはとても厳しいので、僕は青くなって磯田に相談をしました。そしたら、『掛け軸の前に花瓶に花や草を生けて置いておけばいい』とアドバイスしてくれて、その場を凌ぎました。機転も利くやつなんですよ。ところが、いよいよバレそうになった時、なんと磯田が『僕が汚してしまいました、すみません』なんて庇ってくれたのです。友達想いで、優しくて。」

「今は立派に警察官として、みんなのために汗をかく毎日のようです。こんなカッコいい磯田に、かおりちゃんも惚れ込んだんだと思います。」

「少々長くなりましたが、これを持ちまして私の祝辞とさせていただきます。お二人とも、末長くお幸せに。そしてこれからもよろしく!」

中島くんは、壇上の新郎新婦と、会場に向かって一礼して戻ってくる。

私たちは、

「そんなこともあったわねえ」

などと言いながら感慨にふける。

「しゃあ、次は僕の番だ。準備にいってくるよ」

と夫は言い置いて席を離れる。

夫が、小脇にバイオリンを抱えて登場。頭をかきかき、

「ご列席の皆様、私は本日の新郎の義理の兄に当たります、福田マツオと申します。うちは、…家族が多くて、スピーチばかりだと退屈でしょうから、私は得意のバイオリン演奏をしますね!」

と、挨拶というより宣言をして、演奏を始める。

夫は、目を閉じて集中力を高めて、バイオリンの弦に弓を当てる…

そしてその演奏の出来栄えは…

いや、何も言うまい。

招待客たちは、頭を抱えたりトイレに立ったり耳を塞いだりしていたけれどり

どんな演奏でもいいんです、このめでたい席で、お祝いをするという気持ちが一番大事なんだから。

でも、夫は自分の席にえってくるなり、

「どうだった?僕の演奏?」

と自信満々の態で話す。

仕方なく私も、

「ステキだったわ、あなた!」

と返すと、

「うーん、練習時間が短かったから、ちょっと不安だったけど、まずまずの演奏だったよな」

と腕組みして頷きながら、まんざらでもない表情だ。

苦笑いを浮かべているお母さんと目が合って、何も言うなというように目配せされたから、

「そうね、さすがよ!」

と言葉を濁す。

すると息子に

「ママー、次はママの出番ですよー?」

と言われて、

「はっ、そうだった、いっけない!」

食べかけのステーキが喉に詰まりかけて、フンガグッ、となりかけてしまう。

「福田紗江でございまーす!」

とついいつもの癖で語尾を伸ばしてしまう。

なぜか誰にも耳馴染みのある、ずっと人を惹きつける声。自然とみんなの注目を集める。

てへへ、と照れながら、

「私は新郎の姉でございます。少し歳が離れておりますので、新郎・弟のことは、生まれた当初からよく覚えております。」

「弟が生まれたのは、私が中学の時でした。私は弟が生まれて、弟ができたことが嬉しくてたまりませんでした。それで、生徒手帳に生まれたばかりの弟の写真をいつも挟んで、級友たちに写真を見せびらかしていました。」

「弟が大きくなってから、その時の写真を見て、自分で『猿みたい、全然可愛くないや』などと言ったものです。それが今ではこんなに立派な警察官になって、小学生の時からの憧れだった、可愛いかおりさんと結婚するだなんて、誰が予測できたことでしょう。」

会場からまばらな拍手。

「そして、『姉さんは、どうしてこんな猿みたいな弟の写真を大事にしてくれていたんだろう?』と母に尋ねたそうです。」

私は原稿から目を上げて、ひと呼吸おいて会場を見渡す。みんなが笑ってる。

「母は、当時小学生だった新郎に『それはあなたが紗江の弟だからですよ』と説明したのです。新郎はその話を聞いて、『これからも当分、私の弟でいてやろう、と思った』のだそうです。」

「そして、私も、永遠に勝男の姉でいてあげようと決意しています。…勝男には、新郎には、目の上のタンコブだと思われてしまうかもしれませんが。」

「かおりさん、もし勝男が言うことを聞かなかったら、私に言いつけに来てくださいね!『コラっ、勝男!』ってとっちめてあげますからね!」

会場には笑いと拍手が起こる。

紗江は思わぬ大きな反響に、照れながら舌をペロっと出す。

2、お茶の間で団欒

「それにしても、今日はいい結婚式だったわねえ」

しみじみそう思いながら舟は言う。紗江がちゃぶ台の上でコポコポとお茶を淹れる。

「来週から、このお茶の間にも新婚旅行から勝男が戻ってきて、かおりさんも加わるわけだからねえ…」

と感に堪えたようにマツオが言う。

若菜が

「でも、今日の結婚式、最後の笑いはお姉ちゃんが持っていっちゃったもんね。やっぱり、お姉ちゃんが主人公ね!」

などと言って笑う。

なぜか、磯田家・福田家のお茶の間に来ている中島くんも、

「そうですよー、僕なんか緊張しちゃって、ちゃんと話せなかったですから」

「中島くんは緊張に弱いもんね」

と若菜がからかう。

いやあ、と頭を掻く中島くん。

舟が、

「私たちの子供たちも、どんどん巣立っていきますねえ、父さん?」

と浪平に感慨深く言う。浪平も、

「そうだなあ、紗江が結婚して、今日は勝男だからな。いずれ若菜もその日が来るんだろうな」

とニコニコしながら若菜に語りかける。

いたずらっぼく笑う若菜。

「えー、今日は重大発表があります。ね、中島くん?」

「えっ!?若菜ちゃん、今日はその話は…」

と、動揺する中島くんに、紗江は

「なになに、なによ?重大発表って?」

と興味津々で聴き込んでくる。

若菜はにやにや笑いながら、中島くんに

「ほらー、今ちょうどみんないるし。言っちゃいなよー」

とけしかける。

仕方ない、と、覚悟を決めたふうに中島くんは立ち上がる。

「えー、こほん。ご列席の皆さまにご報告したいことがあります。」

「おや、なんだい、ずいぶんあらたまって。今日の祝辞の続きでもするつもりなのかい?」

とマツオがまぜっ返す。

中島くんは緊張した面持ちで、でも、キッパリと

「実は、ワタクシ中島弘は、磯田若菜さんと結婚を前提にお付き合いしています!」

と、叫ぶように宣言した。

磯田家・福田家一同が、ええーっ!と驚きの声を上げる。

「な、な、なんだい、君たちふたりは付き合っていたのかい?!驚いたなあ、ちっとも気がつかなかったよ」

とマツオが言うと、若菜と中島くんはテヘヘと照れ臭そうに頭を掻く。

そして、中島くんはまた真面目な顔に戻って、若菜と一緒に浪平の前に正座する。

「おとうさん、若菜さんと結婚させてください!きっと幸せにしますから!」

和服の浪平は、腕組みをして目を瞑って上を仰ぐ。

周りの人々は固唾を飲んで見守っている。

「ねえ、お父さん、お願い!中島くんと結婚したいんだから!」

となかなか返事をしない浪平に、じれたように若菜は必死に頼み込む。

「うむ、良かろう!」

と意を決したように浪平が告げると、ワッと歓声が上がる。

「よかったわね、中島くん」

「おとうさん、ありがとうございます!」

「いやあ、めでたいことが続きますねえ」

「もー、今日の主役は若菜と中島くんよね」

「若菜はお姉ちゃん、前から悩んでいまちたからね、よかったですぅー。おめでとうございますぅー」

「あれっ?タロちゃん、ふたりが付き合っていたこと、知っていたの?」

と紗江が尋ねる。タロちゃんこと福田太郎は、紗江とマツオの間の子供だから、若菜にとっては甥に当たるのだが、年齢も近くて長く同居していたものだから、きょうだいのような感じになり、タロちゃんは若菜のことを「若菜お姉ちゃん」と呼ぶのだった。

「知っていましたですー」

とタロちゃんはニコニコと答える。

若菜が

「タロちゃんに中島くんとのことを相談したら、『勝男にいちゃんの結婚式の直後だったら、みんな気分が高くなってるからいいんじゃない』ってアドバイスしてくれたのよ、ありがとう、タロちゃん!」

と言うと、浪平が、

「そうか、そこまで読まれてたのか。こりゃあ一本取られたな!」

明るい笑いに包まれる磯田家・福田家であった。

3、若菜の仕事

3月27日。

気分良く晴れた朝。日ごとに春の気配が増してくる中、若菜は口にトーストをくわえて自転車を飛ばす。

「昨日も中島くんと話しこんでいて、朝寝坊しちゃったー」と独り言。

「神田病院附属 神田生物研究所」と看板が出ている門を颯爽とくぐり抜けていく。

若菜は大学で生物系の修士を卒業したあと、この研究所に技術員として勤務している。つまり、ここに勤める研究者たちの実験研究を補佐する役割だ。

指示されたとおりに細胞を培養したり、簡単な電気泳動を行ったり、バイオハザードの廃棄物をオートクレーブ滅菌してから捨てたり。

今日もたくさんの仕事が待っている。

慌てて自転車置き場に自転車をとめて、小脇にかばんを抱えて研究所の更衣室にダッシュする。コートを脱いで白衣を着て、自分の机に着席。

時計を見るとちょうどぴったり9:00。

なんとか間に合った。

ふう、とひと息つくと、隣の机の研究員が

「お、おはよう、若菜さん」

とこわばった表情で挨拶してくる。

「信田さん、おはようございます」

と若菜も慇懃に返す。

若菜は、丸メガネをかけた、いつも自信なさげなこの研究員があまり好きではない。信田は彼の緊張や動揺を話し相手に伝えてしまうタイプなのだ。

若菜と話すときはいつもおどおどしている。

そればかりではない。

机の周りが整理されていなくて、いつも雑然としているのも不快だ。

テキストやジャーナルが乱雑に広げられ、なぜか細胞培養用のシャーレやマイクロピペットのチップ、チューブなど実験道具も机の上に転がっている。標本の冷却や宅急便でやり取りするための発泡スチロールの箱もうず高く積み上げられている。たまに、バランスを崩して埃といっしょに若菜の机の上に降り落ちてくるので迷惑なことこの上ない。

最近は、外部からやたらと信田あてに標本が送られてきているので、ますます荷崩れしそうになっている。

いったい、どんな研究をしているんだか。

神田研究所の研究員は、研究所から割り当てられた内容についての研究や実験というメインの仕事があるのだが、ほとんどすべての研究員は、それ以外に自身が個人的に温めている研究をしている。

若菜は技術員として実験の雑用をしているわけだが、空いた時間に決められた予算で、若菜が組んだ研究をすることも許されている。

若菜はこのシステムが気に入って、この研究所に入職したのだった。

信田が、手元の発泡スチロールの箱を開けながら、

「今年は暖冬で、桜の開花が早いですね」

などと世間話をしかけてくる。

「そうですね、もう葉っぱも出始めている枝もありましたね」

などと、目も合わせずにお座なりな返事をする。

若菜は遅刻ギリギリで職場に駆け込んできたから、さっさと仕事に取りかかりたくて焦っていたので、信田の鈍感さが苦々しかった。

信田は、そんな若菜の気持ちにはつゆ気がつかず、

「あの…良かったら、週末にお花見にいきませんか?」

と、何気なさを装ったつもりの、実際にはこわばった声で若菜を誘う。

若菜は、耳を疑った。まさか、信田から誘われるとは思ってもみなかったからだ。

若菜は、

「な、何を急に言い出すんですか、信田さん!週末は予定があるんですから」

と、どもりながら答える。

「えっ、あっ、そうなんですね。お花見ですか?」

「そうです、お花見に行くんです」

「やっぱり、お花見ですか。ご家族で行くんですか?」

若菜の家は家族が仲良しで有名だったので、聞いたのだった。しかし、若菜は信田がむやみに個人的なことを聞きこんでくるようで、不快に感じた。

「違いますよ。婚約者と行くんです」

「えっ!婚約者、ですか…?」

「ええ」

信田は絶句。

しばしの沈黙のあと、信田は、

「おめでとうございます」

などと言う。

若菜も

「ありがとうございます」

とぶっきら棒に答える。

また、気まずい沈黙。

信田は、気まずさのため、仕事に取り掛かっているそぶりをする。発泡スチロールのクーラーボックスを開けてサンプルが入ったチューブの蓋を開けている。

若菜も

「それは?何の研究をなさっているんですか?」

と尋ねてみる。

信田は、ハッとして

「いやっ、これは…何でもないんです!」

と言ってチューブの蓋を閉め直す。

若菜は、関心なさそうに

「ふーん、そうなんですか…」

と会話を打ち切る。

2人の間にまたもや気まずい沈黙。

しかし、若菜も信田も気がついていなかった。

信田がチューブのキャップを開けたとき、微細な滴が空気中に飛び出してすぐに乾燥してから、球形の「何か」がいくつか放出されてしまったことを。

そのうちのひとつが、若菜が息を吸い込んだときに鼻粘膜にくっついたことを。

球形の「何か」は、表面に糖鎖が繋がったタンパク質の取っ掛かりをたくさん持っていて、若菜の鼻粘膜に強く吸着し、さらに別のタンパク質の取っ掛かりが、粘膜下に侵入しようとする。若菜の大きな食細胞が球形の「何か」を包み込むようにして取り込もうとするが、球形の「何か」はそれもまんまと擦り抜けて、若菜の血管内に入り込み、血流に乗って行ってしまった。

4、発症

4月10日。

若菜は、朝起きた時から、熱っぽさとだるさとぼうっとした感じが続いていた。ここしばらく忙しかったから、疲れちゃったかな…

目眩も感じたが、まじめな若菜は倦怠感をおして職場に向かう。

ふらふらしながら自転車を停めて、研究所に入っていく。

若菜は席に着くなり、机の上に突っ伏してしまう。机の冷たさがひんやりとおでこに伝わってくる。

ふだん気が利かない隣の席の信田も、さすがに若菜の不調に気がついて、

「若菜さん…大丈夫?」

などとおずおずと尋ねる。

若菜はすっくと起き上がって、

「大丈夫!…です」

と真っ赤に紅潮した顔で答える。

信田も、若菜に不機嫌そうにキッパリと言われて口をつぐんでしまう。

しかし、若菜が仕事をしていると、同僚たちに「どうしたの?!」「顔が真っ赤だよ」「熱があるんじゃないの?」と次々に心配な言葉を投げかけられるので、さすがに若菜も大丈夫と強弁することもできなくなって、体温を測ってみたら38.9℃だった。

研究所の事務員に、

「病院を受診しなさいよ。連絡しておいてあげるから」

と言われ、しぶしぶ隣の神田病院の外来を受診することにした。

若菜が神田病院の外来で待っていると、熱のせいか頭がポーッとしてくる。

この病院には小児科があるから、外来通院の子供たちやその親が連れてくる子供が多くて、みんな泣いたり走り回ったりして騒がしい。

妖精がはしゃぎ回っているかのような気持ちでそれを聞いていたら、

「磯田さーん、磯田若菜さーん、2番診察室にお入りください」

と案内がかかる。

若菜は言われたとおりに2番診察室に入る。

パソコンに接続された画面の前に、医師が座っている。

「どうぞおかけください」

と医師に言われて回転する丸椅子に腰掛ける。

若菜は、病院が苦手だ。いつも元気で病気をあまりしてこなかったから、慣れていないというのもある。

でも、今日はあまりにもしんどくて、医師に相談できて助かった気持ちが強い。

真面目そうな診察医師が、

「こんにちは、ずいぶんしんどそうですね…」

と問診票を見ながら語りかける。

「ずいぶんお熱が出ていますね。いつから熱っぽいですか?」

「うーん、2日ほど前から、かな…」

「風邪っぽくはないですか?鼻水や咳などはありませんか?」

「いえ、喉や鼻は大丈夫です」

「筋肉や関節の痛みは?」

「少しあるかもしれません…」

「インフルエンザの予防注射はしているんですよね?」

「はい、職場で、10月下旬だったと思います」

「ええ、こちらにも記載がありますね」

医師は電子カルテを確認している。

「インフルエンザの予防注射を射つのが早いめの方は、春先のこの時期に効果が薄れてきて、インフルエンザにかかってしまうことがあるんですよ。ですから、インフルエンザのチェックのために、鼻の奥をこする検査をさせてもらっても良いですか?」

若菜は、以前にこの検査をしたことがあり、鼻の奥を小さなブラシで擦られて、痛いし不快だし、鼻血が出たし、本当はやりたくなかったけど、検査の必要性をこう丁寧に説明されると断りようがない。

「お願いします」

とやむなく答える。

医師は、すでに検査キットを用意しながら大きく頷く。

医師は若菜に、

「天井の方を向いてください。鼻から細い棒をいれますからね」

と子供に噛んでふくめるような言い方をする。

そうだ、この医師は小児科医師だった。ここは小児科外来だ。

若菜は、

「入れるとき、痛くしないで!優しく入れてください…」

と懇願した。

医師は微笑しながら

「大丈夫ですよ、ゆっくりやりますからね…」

と言いながら、手際よく若菜の鼻腔に棒を挿入していく。

鼻腔の壁に沿わせるようにスッと棒を挿入する。若菜があまり摩擦を感じることなく、深い位置まで棒が入ってから医師は軽く2、3回棒を指先で擦るようにして回してから引き抜く。

「先生、お上手ですね…」

「いや、磯田さんがうまく力を抜いてくれたから、すんなりいったんですよ」

と医師は謙遜する。

医師は棒の先をキットに付属の液体の入ったチューブにつけてから、問診を続ける。

「食欲はいかがですか?」

「ふだんよりは落ちています」

「倦怠感は?だるくないですか?」

「ええ、ここ数日、とてもだるいです」

「ふむ、…妊娠については?妊娠の可能性はありませんか?」

若菜は、熱でぼうっとしていたが、この質問にはきっとなって、

「ありません!あるわけないでしょう?!」

とむきになって答える。

医師は若菜の剣幕に少し押されたように、

「いやいや、失礼。妊娠については、若い女性が受診されたときには必ずお尋ねすることになっているんですよ。ですからそんなにお怒りにならないで…」

となだめるように言う。

それでも若菜は怒ったようにそっぽを向いている。

医師は

「では、レントゲンを撮って採血に回ってきてください。結果が上がってきたら、またお呼びしますからね」

と若菜の憤慨をいなすように指示する。

若菜が検査を受けて外来診察室の待合いに戻ってくると、ほどなく診察室に入るようアナウンスされる。

若菜が診察室に入ると、医師はじっとパソコン画面に表示された胸部画像を見ている。

鎖骨・肋骨・背骨といった骨が並んでいるのが見える。若菜は理科室の骨格標本みたい、などと思っていると、医師は若菜に座るように指示する。

「検査お疲れ様でした。インフルエンザは陰性でしたよ。それから、レントゲン上は肺炎などは無さそうだけど、血液検査では炎症反応がずいぶん上がっていますね…」

と、メガネのふちを持ち上げるように触りながら考えを巡らせているふうで若菜に説明する。

「お腹は?腹痛はありませんか?便秘や下痢にはなっていませんか?」

「大丈夫です、問題ありません」

「お酒やタバコは?」

「お酒は付き合い程度で。タバコはいっさいやりません」

医師は頷きながら、電子カルテに打ち込んでいく。

それが済むと若菜の方にくるりと向き直って、

「では、触診と聴診をしていきますからね」

と若菜に宣言する。

「きちんと背筋を伸ばしていただいて…頭から触っていきますね」

と、医師は断りは入れるが、若菜の了解は言葉では得ずに診察を進める。

耳の後ろや肩、鎖骨の周囲を押すように触り、若菜の目の下を親指で軽く引っ張り、あかんべえをさせる。

「少し上を向いて…唾をごっくんと飲み込んでください」

と医師は言いながら、若菜の喉の表面を両手で寄せるように触る。

そして、

「はい、よろしいですよ。次は胸部聴診をします。服をまくって胸を見せてください」

と若菜に伝える。

若菜は、胸を見せるよう言われて、少し躊躇ってから、シャツの裾を浮かせるように膨らませた。ここから手を入れてください、というふうに。

医師は軽く腕組みして子供を諭すように、

「いや、丁寧に聴診する必要があるから、ちゃんと服をまくって胸を見せてください」

と若菜に告げる。

あらためてそう指示されて、若菜は少し恥ずかしそうにしながら、おずおずと服をまくる。

医師は若菜の胸をじっと見つめ、丁寧に聴診していく。若菜の色素の薄い乳房にひんやりと冷たい聴診器のヘッドが押し込まれていく。

若菜は自分の鼓動が強くなったのがしっかり医師に聴き取られているだろうと思うと、余計に動悸が激しくなる気がした。

医師は、胸部の下の方まで時間をかけて聴診し、おもむろに

「肺の音は問題ないですね。お熱の原因ははっきりしないですが…39℃の発熱ですから、細菌感染が疑わしいですね。抗生物質を処方しますから、それで様子をみてみてください。」

と若菜に診立てを説明する。

若菜は服を調えながら、

「分かりました、ありがとうございます、中島先生」

といたずらっぽく、わざと慇懃に礼を述べる。

若菜と中島君が婚約したことが病院の受付にも知られていて、受付の機転で、若菜は小児科で外来診察していた中島君のところに回されて受診にきたのだった。

「ここ最近は忙しかったからねえ、きっと若菜ちゃんも疲れちゃったんだね。熱が下がるまでは、仕事は休んで自宅で療養するように。これはお医者さんの指示だからね。」

「分かりました、先生。」

中島君は周りをみて、誰もいないのを確認すると、若菜の両手を引き寄せるようにして、キスをした。

予期せぬ中島君の大胆な行動に、若菜は顔を真っ赤に紅潮させる。

「中島…先生ったら!発熱患者にキスなんかして、いいんですか?」

「フフッ。病気は人にうつせば治るんだってさ」

「そんな、非医学的なことを言って!」

「1回だけしか使えない治療法だけどね」

二人で忍び笑いをしてから、若菜は中島医師に手を振って診察室を出て行く。

その時、中島君の口腔内に、若菜の唾液に混じって、あの球形の「何か」が侵入した。それも、数え切れないくらい多数の「何か」が。「何か」は、中島君の唾液にゆっくり流されながら、舌の裏側、喉の奥、扁桃腺に引っかかるようにして取り付いていく。そして「何か」は次々と表皮下に入り込んで、中島君の巨大な食細胞に包まれるようにして押さえ込まれるものもあるが、多数の「何か」が逃げて血管内に入り込み、血流に乗っていってしまった。

もちろん、中島君はそんなことには気が付いていない。

5、容態悪化

4月13日。

職場の若菜の机。きちんと整理されているだけに、あるじがいないといっそう寂しい。机の上の磯田福田家の全員が笑っている写真も傾いている。

隣の席の信田が不審な表情で見ている。

たまたま通りすがった事務員に、若菜がなぜ休んでいるのかを尋ねると、

「知らなかったんですか?ここしばらく熱を出しているんですよ。」

と教えられた。

腑に落ちない表情の信田。

磯田家では、若菜は若干熱が下がったものの、倦怠感が酷くてまだ職場に出られない。

紗江が、布団の中で横になっている若菜に、

「なかなか治らないわねえ…」

としみじみ心配そうに言う。

若菜も

「うん…すごく背中がゾクゾクするし、食欲もないし…」

と力なく答える。

ピンポーン、と呼び鈴が鳴って、舟が出てみると、中島君がお見舞いに来ていた。

中島君は

「若菜ちゃん、どうですか?」

と舟に問う。舟は、

「それがね…あまり思わしくなくて…」

と顔を曇らせる。中島君は、

「えっ、そうなんですか…」

と表情がこわばる。

若菜の部屋に通される中島君。

紗江が、中島君に挨拶する。

「あら、中島君、お見舞いに来てくれたのね」

「いやあ、主治医として、往診に来たんですよ」

と中島君は照れくさそうに返事をする。

若菜は、無理に笑みを作って中島君を迎えるが、表情が硬く呼吸も荒い。

中島君も内心、これはあまり良くないな、と思っている。

「調子はどうかな?若菜ちゃん?」

「ん、少し良くなったよ」

と言うが、そんなに良くなったようには見えない。口角と耳介下にほんの少し水泡ができていることに気がつく。

「あれ、少し水ぶくれがあるね…?口の中は?」

「うん、口の中にもずいぶん水ぶくれがあるの…」

中島君が若菜の口の中を視診すると、頬の裏がわを中心に、ざっと数十個の水ぶくれが多発しているのが見える。

「あんまり熱が下がっていないね…背中に電気が走るような悪寒があったり、体のだるさが抜けないんじゃないかな?」

と中島君が言うと、若菜と紗江がその通りだと答える。

中島君は頭をかきながら、

「いやあ、若菜ちゃん、これは、水疱瘡だよ。」

とにっこり笑って告げる。

「水疱瘡?私、水疱瘡なの?」

「うん。それで症候的には説明がつけられる。」

「でも私、小さい頃、もう水疱瘡をやってるんだけどな…ねえ、お姉ちゃん?」

「ええ。確か、放送5年目くらいの時にそんな話が…」

若菜と中島君が「え?」「は?」と紗江に聞き返す。

「いや…ともかく、若菜は小さい頃にもう水疱瘡を済ませているのは確かよ」

と紗江がきっぱりと断言する。

中島君は、そう言われても

「一生のうちに2回、水疱瘡にかかる人もいるんですよ。稀だけどね。」

と断定するように言う。

若菜と紗江は「そうなのね…」と顔を見合わせてつぶやくように言う。

「でも、ずいぶん体調が悪そうだし、入院で治療しましょう。点滴でアシクロビル…あ、水疱瘡の特効薬なんだけど…これを早めに投与しないといけませんから。」

「え、入院?私、入院するの?神田病院に?」

「ええ。入院したほうがいろいろと対応しやすいし、きめ細かく処方も出せるからね」

紗江も

「確かに、健康が取り柄の若菜にしてはずいぶん具合が悪そうだけど…でも入院なんて…」

と躊躇している。

中島君は

「入院しましょう!心配ないですよ、ちゃんと僕が主治医として担当していきますから」

と笑いながら答えて、さっそく病院に電話をして、病床をひとつ押さえる。

中島君は

「病床が取れましたから。あ、紗江ねえさん、タクシーを呼んでもらっていいですか?それと保険証と着替えとか、入院に必要なものをひととおり揃えてください」

と若菜と紗江に指示する。

「何日くらいの入院になるのかしら?」

「はっきりとは言えないけど、3,4日くらいを見込んでください」

紗江は戸惑いながらも、舟と相談しながら準備を始める。

中島君は、うわべは自信ありげに「水疱瘡」と診断をつけたけど、なにか引っかかるものを感じた。

全身状態が悪すぎるし、水疱が全身に一斉に出ない、など、非典型的なのだ。

そんなことを言うと、若菜や磯田家の人たちをむやみに心配がらせるので、あえて言わなかったが、綿密に経過を診る必要があるケースだ、と直感した。だから若菜を入院させた。

その判断はある意味正しかったことが、後になって分かるのだが。

さて、若菜の看病をしていた紗江の身体の中では…

若菜の喋った時に飛んだ飛沫が空気中に漂い、紗江の鼻腔粘膜にくっついた。飛沫の中には、あの球形の「何か」がいくつか含まれていた。

球形の「何か」は、紗江の鼻腔粘膜にひっつくと、表皮の下に潜り込もうとする。

しかし、表皮下に潜り込むとすぐに次々に大きな細胞がやってきて、「何か」と接触する。大きな細胞のうちのひとつが、どんどんY字状の物質を産生放出する。

Y字状物質は、「何か」の表面に次々と突き刺さっていく。Y字状物質な中にはふたつの「何か」をつなぐような形で突き刺さっているものもある。

「何か」はハリネズミのようになり、動きが鈍り、複数の「何か」が塊になってしまっている。

そこに、さらに大きな食細胞がやってきて、「何か」の塊を貪食してしまった。

最初の犠牲者

4月12日。

中島君は休みの日だが、病棟に顔を出しに来た。

若菜や、何人か経過が気がかりな入院患者がいるからだ。

若菜は、入院して絶食の上、点滴を開始したところ、解熱傾向になり、少し楽になってきたようだった。ただ、水疱が増加しているのは気になっていたが。

中島君が病棟に到着して、ナースステーションに入ると、夜勤明けの上がりの看護師が顔をしかめながら中島君に

「若菜さん、あまりよくないかもしれませんよ…」

と耳打ちする。

電子カルテで若菜のバイタルをチェックすると、この未明から体温は40℃を超え始めている。発熱のせいか、血圧も脈拍も上昇している。SpO2つまり血中酸素濃度は、95%以上を維持できている。

中島君が慌てて病室の若菜を訪れると、あまりの若菜の変わりようにぎょっとしてしまった。

若菜の顔面・上肢・首筋まで…つまり、見えるところすべてに水疱が多発して、一部はただれてびらんになってしまっている。息が浅く、はっはっと喘ぐような呼吸をしている。生汗も噴き出ている。

中島君は、

「若菜…ちゃん?どうかな、体調は?あんまりよくないかな?」

と、平静を装って話しかけようとするけれど、どうしても声が上ずってしまう。

若菜も、うまく目が開かないようで、呼名されてからゆっくりと目を開く。

「中島君…すごく、具合が悪いの…」

喋るのも億劫そうだ。

「うん、かなり辛そうだね…水ぶくれもすごく増えちゃったね。全体を見せてもらうからね」

と言って、若菜を仰臥させて、着衣を脱がせ全裸にする。

すると…

やはり、全身にびっしり水疱が多発している。直径数ミリくらいで、真ん中が軽くへこんでいる。

乳頭およびその周囲や腋下、外陰部は衣服と擦れるせいか、水疱は潰れてびらんになっている。

中毒性皮膚壊死…

激しいアレルギー反応ーーおそらく抗生剤か抗ウイルス剤に対してーーに伴う皮膚症状。

症状は切迫している。まずは抗生剤点滴を即中止。

あわてて抗生剤が滴下されているクレンメを止める。

ステロイド投与するとして、この全身状態ではICUーー集中治療室ーーに入れるべきだが、あいにく今はICUは全床埋まっている。他院に送るべきか?

ともかく、ステロイドを可及的速やかに投与しよう…病室のナースコールを押す。

「看護師さん、中島です。プレドニゾロンと救急カート、持ってきてください」

緊急時こそ、ほかのスタッフを慌てさせずにゆったりとした声がけを心掛けないといけないのだが、どうしても焦った声色になってしまう。

ようやく、看護師が物品を持って病室に顔を出す。

中島君は自分で手早く点滴をセットし、看護師にはモニターを持ってくるように指示する。

すると、別の看護師が、呑気そうにやってきて、

「あ、先生、ご家族が面会にきていますよ」

などと言う。

「えっ…そうなの?」

「お通ししますねー」

と、医師の指示も聞かずに病室のドアを大きく開けて、どうぞー、などと通してしまう。

紗江、松夫、浪平、舟が、花束だのケーキの箱だのを手に持ってニコニコと立っている。

「お!中島君。ご苦労ご苦労、白衣を着て職場にいると、一段と男前が上がるねえ」

「ほんと!若菜も婚約者に治療してもらえるなんて、幸せよねー」

「なかなかできない体験ですね」

などと口々に言いながら病室に入ってくる。

「ええっ…若菜、どうしたの?!これは…」

「こっ、これが若菜…?大丈夫なのか?」

浪平は若菜の変わりように驚いて駆け寄る。

「中島君、若菜はいったい…どうしちゃったんだい?」

と松夫が聞く。

「ええ…アレルギー反応で皮膚症状が出たんだと思います。たぶん、抗生剤か、水疱瘡の薬で」

その時、若菜がバンバンと大きな音を立て始めた。はっと目を向けると、ベッド上で大きく弓反らせている。四肢を突っ張らせては脱力して、ベッドに身体を打ち付けている。白目をむいて、歯を見せつけるようにして噛み締め、口角からはよだれがつーっと垂れている。

「若菜、どうした!?」

「若菜、しっかりっ!」

浪平、紗江が悲鳴を上げるように叫ぶ。

舟は、口に手を当てて、「なんてこと…」と呟いている。

松夫は、ケーキの箱を抱えたまま呆然としている。

中島くんは、

「けいれん発作か、くそっ、」

と舌打ちする。

慌てて救急カートの引き出しを漁るが、必要な薬剤が見つからない。

結局、再びナースコールに呼びかける。

「中島です、セルシン一筒、持ってきてください、早く!」

紗江、浪平、舟、松夫は、言葉を失って、ただ呆然と状況を見守るばかりだった。

さっきの看護師がゆっくりと、アンプルを1つ手に持ってやってくる。

「せんせー、持ってきましたー」

ニコニコしていて、状況が切迫しているのが分かっていないようだ。

若菜は、四肢の突っ張りはなくなったが、意識も戻らないまま、不随意な手足をねじるような奇妙な動きをしている。

中島君がアンプルを引ったくるようにして手早く開ける。シリンジに針をつけて薬液を吸い上げて、点滴ルートの側管から一気に注入する。

すると、数秒くらいで、若菜は身体の動きを止めた。けいれん発作は頓挫されて、若菜はおとなしく寝入ってしまったようだ。

中島くんは、看護師に、

「モニター装着」

と手短に指示する。

看護師も、普段温厚な中島医師の強い口調に、緊張感が高まる。

中島君は、手を動かしながら、呆然としている4人の見舞客に、

「高熱と薬のせいで、けいれん発作が出たようだけど、いま、薬で抑えましたから」

と説明するが、治療がうまくいっていない言い訳に聞こえてしまう。

モニター装着した後、看護師が、

「先生、酸素…」

と画面を指差す。

SpO2が67%、61%、55%、とみるみる下がっていく。

中島君が、若菜の手を握る。かなり冷たい。

はっと、若菜の胸を見る。

胸郭が動いていない。呼吸が止まっている。

「しまった、呼吸抑制か」

中島君の背中をじんわりと冷や汗が伝う。

「呼吸補助するよ、バッグバルブマスクとって」

看護師が慌てて、救急カートの横にかけられている、鼻と口を覆う管のついた大きなプラスチックのマスクを中島君に手渡す。

中島君は、受け取るなり若菜の顔面にそれをあてがう。

ところが、マスクが小さすぎて若菜の顔にぴったり合わない。

「なんだこれ、子供用じゃないか!」

と中島君が叫ぶ。

「だってここ、小児科病棟だから…」

「隣の内科に行って、大人用を持ってきて!」

ほとんど泣くように中島くんが叫ぶ。

看護師が駆け出ていくと、中島君は、小さいマスクを工夫して若菜の顔にフィットさせようとする。

幸い若菜の顔が小さいおかげで、うまくやれば空気が送り込めそうだ。

マスクを強めに押し当てて、バッグを押すと、若菜の胸郭が上がる。

数回それを繰り返すと、徐々にSpO2が上昇し始めた。

その時。

浪平がわなわな震えたと思ったら、いきなり床に倒れ込んだ。

「お父さん!」

「あなた!」

紗江と舟が口々に叫ぶ。

松夫は口をパクパクさせて「ひょえーっ!」などと狼狽えている。

中島君がみたところ、顔が真っ青で、かなり苦しそうな表情だ。胸を押さえている。

中島君が介抱したいところだが、若菜のことで手が離せない。自力呼吸が止まっている若菜にとって、中島君が送り込む空気が命綱だ。

困った…

紗江も舟も松夫も、倒れて呻いている浪平の周りでオロオロするばかり。

中島君が

「ナースコールを押して!人を呼んでください!」

と指示すると、紗江がはっとしたように、ナースコールを押す。

「どうしましたかー?」

「お父さんが…父が倒れまして…誰か来てください!」

「分かりました」

そう言って看護師が駆けつけてみると、中島君が若菜を呼吸補助し、浪平が床で倒れて家族が周りで覗き込んでいる。

中島君が、 

「ハヤカワさん、全館!全館ドクターコール!」

「はいっ!」

ハヤカワ看護師は自分の院内PHSをかける。

「ドクターコール、ドクターコール。手のすいている職員は集まってください」

と、PHSで言ったことが館内全体に放送される。

中島君は、

「だめだよ、場所を言わないと!」

とイライラしたようにたしなめる。

ハヤカワ看護師は、あっ、といってからあらためてPHSをかけ直す。

「ドクターコールは、小児科病棟○○室です」

全館に放送されるや、ドドド、と駆けてくる足音。白衣を着た医師、看護師、少し遅れて背広の事務職員も。

「あー、この方ねー。もしもーし、分かりますかー!?」

「この方は?お見舞いかな?」

「JCS3桁」

「触れないよー、AED持ってきてー」

「挿管だねー」

「ルート、早くとって」

医師たちは口々に指示を出し、研修医や看護師がきびきびとそれに従って動いている。

ハヤカワ看護師は、服がはだけている若菜に配慮して、ほかの職員たちから見えないように、カーテンを引いてくれた。そして、お父さん、という言葉が耳に残っていたのだろう。

「中島先生のお父様が倒れられたんです」

とスタッフに伝えてしまう。

「はいはい、中島先生のご尊父さんね」

「ストレッチャー、持ってきて。循環器外来で処置するよ」

家族の前でAEDで通電できない、そんな姿を見せるのは酷、という配慮で移すことにしたのだろう。

ストレッチャーが来て、スタッフが声を合わせて浪平を移乗させ、循環器外来に移されていった。紗江、舟、松夫も看護師に促されて退室する。

人の波が引いてから、 

「先生、アンビュ、持ってきました…」

と、看護師がおずおずと出す。

中島君は

「ありがとう」

と言ってそれを受け取り、小さいバッグバルブマスクと付け替える。

拮抗薬を投与して、どうやら酸素も安定した。

若菜は、すうすうと寝息をたて始めた。

中島君をどっと疲れが襲う。

そして… 

この時の騒ぎの中で、若菜から出た飛沫に潜んでいた球形の「何か」が、病室に駆けつけたスタッフたちの鼻腔や口腔粘膜に取り付いた。取り付いた「何か」は、ある一定年齢以上の者の体内には入り込むことができなかった。血管の壁でゴロゴロしていた白血球が近寄ってきて飲み込んでしまうのだった。

しかし、ある一定年齢より若い者は、あっさり「何か」に入り込まれてしまった。

やはりもちろん、誰もそんなことには気がつかない。

中島君が若菜の病室から出ると、紗江・舟・松夫が憔悴して椅子に腰掛けている。

中島君はその様子ではっと気づいた。

紗江と目が合う。

紗江は、軽く頭を横に振りながら言う。

「お父さん、ダメだったわ。心臓麻痺ですって…」

この騒動の最初の犠牲者である。

中島君はただ呆然と立ちすくむばかりだった。

6、確定診断

4月14日。

中島君は朝から体調が悪かった。

めまい悪寒がひどく、熱っぽい。ふらふらする。

体調を崩すのも無理はないだろう。

婚約者が重病で、担当医として良くしてあげられず、しかもその父親が自分の目の前で亡くなったのだから。

精神的にもかなり参っていた。

でも、簡単に外来を休む訳にはいかない。

中島君の診療能力と人柄に惹かれて、ずっとかかってくれている患児とその親が待っているのだ。

そう考えて、無理を押して外来診療に出る。

診察室に入るなり、看護師さんから、

「先生、大丈夫ですか?」

と心配そうに声かけされる。

相当やつれて見えたのだろう。

中島君は、大丈夫、と、ぎこちなく笑みを浮かべて返事をする。

しかし、熱のせいか、視野が歪んでいる。

電子カルテの文字も、シャウカステンのフィルムも、他院からの紹介状も、歪んでぼやけて見える。

中島君は内心、参ったなと思いながらも診療を続ける。

マイクで待ち合いに名前をコールしては、患児とその親が入ってくる。

みんな、中島君をみて、「大丈夫ですか?」と声をかけてくれたり、気を使ってかえって声をかけないけど明らかに驚いていたり心配そうであったり。

この時。

中島君が話している時の呼気から、唾液の飛沫が少しずつ飛び、患児や同伴している若い親、若い外来看護師、の鼻腔や口腔粘膜にくっついてしまう。

その飛沫の中には、球形の「何か」が含まれていて、彼らの体内に侵入していく。

中島君はなんとか外来診療を済ませて若菜を診にいく。

若菜は、中毒性皮膚壊死に病名を変えて治療を変更したが、ちっとも良くなっていない。

意識状態こそ晴明であるが、熱は再び40℃を超えはじめ、呼吸状態も思わしくない。食事は摂っても受け付けず吐いてしまう。顔面浮腫もあるが、病気の症状なのか、薬の副作用か分からない。

若菜は顔面をふくめ身体中に水疱ができて、水疱が壊れたところから血性の薄赤い汁がジクジクと出て、早く壊れたところはかさぶたになっている。

中島君を見ると、力なく微笑む。

「今日は調子はどうだい?若菜ちゃん?」

若菜は日増しに体調が悪くなっていると自覚していたけど、中島君にそんなことは言えない。

「うん。今日は昨日よりいくぶんかいいみたい。」

中島君は軽くうなずくが、それが嘘だというのは分かっている。

「中島君こそ、ずいぶん疲れているんじゃないの?」

若菜が心配そうに尋ねる。

「おとといはいろいろあったからね」

中島君は微笑みながら答える。

浪平が亡くなったことは、まだ若菜には伝えていない。若菜の病状をいっそう悪くしかねないからだ。

中島君は若菜の呼吸音を聴診する。

色白で滑らかな若菜の乳房は、いまや水疱とかさぶたと膿汁で見る影もない。それに、水疱が潰れて痛いので、聴診器もしっかり押し当てることができない。

しかし、呼吸状態が悪いので、胸部聴診は必須だ。

若菜も弱音を吐かずに痛みを堪えている。

肺音も、日に日に悪くなっている。肺胞の湿った音。水が滲み出て酸素交換ができていない音。

中島君はため息が出そうになるのを押し殺す。

「なんとか、薬が効いてくれるといいけど」

2人の視線が合う。微笑みあう。

ちっとも良くならない病。

2人は、地図もなく海の上に放り出された難破船だった。孤独に漂うしか術がない。

病室のドアがノックされる。

中島君が「どうぞ」と言うと、勝男とかおりちゃんが入ってくる。

中島君も、「磯田ー!かおりちゃん!」と言って破顔する。

若菜も「お兄ちゃん、かおりさん!おめでとう!」と改めて祝福する。

勝男も、

「いやあ、新婚旅行ではいろいろあってねー…」

などと努めて明るくしようとしているが、予想外に若菜の具合が悪そうであること、そして若菜の顔や首や腕の凄まじい水疱に驚きを隠しきれず、動揺して言葉が続かない。

若菜もそれと察して、

「ね、私、ひどいでしょう?」

と自分から話す。

勝男も、

「うん…、そうだね、思っていたよりも…症状が悪いのかな…」

などと言葉を濁す。

かおりちゃんが思い出したように花束を渡す。

「早く良くなってね」

とだけ言うのが精一杯だった。

勝男とかおりちゃんは、ぎこちない雰囲気のまま病室を辞する。

中島君が、2人を玄関まで見送る。

「若菜はかなり具合悪いのかな?」

「うん…思わしくないなあ…」

言葉少なに玄関まで歩く。

玄関で、

「中島ー、ありがとうな、若菜を診てくれて」

と勝男が言う。

中島君は、

「いや、磯田、全然力及ばず、大苦戦だよ、若菜ちゃんにも辛い思いをさせてしまって。」

と顔を伏せて答える。

「中島もずいぶん疲れているんだろ?しっかり休んで、続けて診てくれよな」

と激励して、勝男と若菜は病院を後にする。

勝男とかおりちゃんが、若菜の病室に入っていったのをじっと観察していた者がいた。

信田だ。

信田は、苦い顔をして、見つからないように歩み去る。

中島君は、その日は当直の日だった。病棟に泊まり込んで、状態が急激に悪化した患者に対応したり、緊急の外来患者の対応や救急車の受け入れをする。

だいぶ疲れているがやるしかない。

ふらふらと病棟を歩いて、回診しようとしていると、

「おいおい…中島君、中島先生じゃないか、大丈夫かい?だいぶ疲れているようなだけど…」

と声をかける者がいた。

神田博士だ。

この病院の理事で勤務医師であり、隣の神田研究所の所長でもある。

頭頂は禿げ上がって、両側頭にフサフサの白髪。団子鼻。誰にでも優しくて、患者には特に優しい。

中島君も、めまいのあまり、思わず神田博士の太鼓腹に寄りかかってしまう。

「おいおい、熱もあるんじゃないか?君は当直だったかな。でも、今日は休みなさい。私が代わりにやっておくから。なに、どうせ学会の準備があるから、今夜は病院に泊まり込むつもりだったんだよ」

と言って、当直看護師長に当直医の交代を連絡し、有無を言わせず中島君に休ませてしまう。

中島君も、「ありがとうございます」と言い残して、仮眠室で前後不覚に眠り込んだ。

その日の晩は、いくつかの事件が起こった。

それも、午後10時ころ、ほぼ同時刻に。

まず、神田病院で。

当直していた神田博士の院内PHSが鳴った。

「磯田さんの、磯田さんの呼吸状態が悪くなりました」

と看護師からの連絡だった。

神田博士が急いで若菜の病室に行くと、若菜が著しい発汗とともに、喘ぐような呼吸をしている。SpO2は62%まで下がってきている。

酸素マスクをつけていたが、その効果も限界のようだ。

そして、神田博士は改めて若菜の様子を見つめる。

若菜は中毒性皮膚壊死だと聞いていたが…

神田博士は思わず叫んだ。

「こりゃあ、君、天然痘じゃあないか!」

7、テロル

若菜の命の火が消えかけていた時。

勝男は、職場に来るように、と上司から電話で指示された。

なんだろう、と思って署に行ってみたが、そんな指示は出ていないことが分かった。

同僚からは、おめでとう、と結婚を祝福され、浪平の死のお悔やみを言われ、疲れていたから聞き間違えたのだろう、と冷やかされた。

腑に落ちないまま、署を後にする。

しばらく歩いて、国道の脇の歩道で。大きい道路だからトラックやダンプカーが轟音を立てて通り過ぎて行く。車通りが途切れたとき。

背後から「磯田勝男さん?」と声をかけられた。

振り向くと、グレーのコートにベレー帽、白いマスクの男が立っている。

「そうですけど何か?」

と返事をすると、男が勝男の背後の、道路の遠くの方を指差す。

勝男が、なんだろう、と振り向いたとき。

左上腕に鋭い痛みが走った。

勝男は痛さのあまり、アッ、と叫んでうずくまる。

男は身を翻して走り去って行くのが見える。

腕を刺された…おそらく、アイスピックのような細い鋭利なもので。

俺は誘い出されて襲われた、と気づいて、勝男に言い知れぬ恐怖が絡みついてくる。

と、その時、勝男のスマホに着信がある。

かおりちゃんからだ。

電話に出ると

「い、いま、変な人が家の中に居て、刺されたの、もう居なくなったけど…」

と、かおりちゃんが話すが、動転していて要領を得ない。

すぐに、タロちゃんの声に代わる。

そうか、近くにタロちゃんが居ておそらく自宅にいるんだろう。それなら少し安心だが…

タロちゃんの話すところによると…

勝男が出て行った後、タロちゃんが自分の部屋で物音がする。かおりちゃんと一緒に、部屋に行ってみると、帽子をかぶりマスクで顔を覆った青い服の男がいた。

タロちゃんの部屋は、以前勝男と若菜が使っていた子供部屋で、タロちゃんは、勝男が使っていた机を譲り受けて今も使っている。

タロちゃんが「どこから入ってきましたか?」と尋ねると、男は「机の引き出したから出てきたのさ」などと答える。

タロちゃんは、亡くなった浪平の弔問客が勝手に家に入ってきてふざけているのかと思った。

かおりちゃんが「どちらからいらっしゃいました?」と尋ねると、青い服の男は、机の方を指差す。机のそばの窓が開いている。

タロちゃんとかおりちゃんがそちらに目をやった時、タロちゃんの腕に鋭い痛みが走った。

タロちゃんが、痛いですよ!、と声を上げ腕を見ると、男が太い針状のものをタロちゃんの腕に突き立てている。

かおりちゃんは、それを見て悲鳴をあげ、逃げようとする。

男はもう一本、同じような針を取り出して、かおりちゃんの肩にグサリと刺す。

かおりちゃんが、助けて!、と叫ぶ。

男は

「これで十分さ」

と言い残して、開いていた窓からひらりと逃げていく。

かおりちゃんの叫び声を聞きつけて紗江、舟、松夫が駆けつけるが、その時には男は逃げ去った後だったという。

浪平が亡くなり、若菜が入院している中での襲撃事件。

勝男はとりあえず、電話で自分が襲われたことは伝えなかったが、警察に通報を…

勝男が110番にかけようとしたその時。

またもやスマートフォンに着信が来た。

表示を見ると、神田病院からだった。

勝男は慌てて電話を取る。

「あっ!磯田若菜さんのご家族さん、えー、勝男さんですか?」

と、年嵩の女性の声。

「はい、兄です。兄の勝男です」

「若菜さんなんですが、いま、急変しまして…危篤状態です。すぐに病院においでになれますか?」

「えっ!分かりました、今すぐ向かいます。他の家族は…」

「みなさんで来院ください」

「分かりました」

若菜が危篤…

勝男は激しく動揺する。

警察を呼ぼうかとも思ったが、いまは無理そうだ。

ともかく、病院へ。

道路でタクシーを拾い、車内から、かおりちゃんに若菜の危篤と神田病院に向かうように電話で指示をする。

病院に到着して、守衛に案内された救急の入り口から病棟内に入る。

若菜の病室に駆けていく。

夜中なのにもかかわらず、若菜の病室から、煌々と光が漏れ、騒々しい。

勝男がドアを開けると、てっぺんが禿げ、両側頭が白髪フサフサの医師が若菜の胸をしきりに両手で押しているところだった。

心臓マッサージだ。

医師はドアのあいた気配に振り向く。

「あっ、君!」

勝男は若菜に駆け寄る。

顔に触れる。

「若菜、おい!若菜!」

涙声で勝男は抱きすがる。

医師は怒ったように叫ぶ。

「君、家族か?!なぜ入ってきた!」

いまいましそうに医師が詰っていると、さらに他の家族が次々と入ってくる。

紗江、舟、タロ、松夫…

医師は、

「だ、誰だ…家族を呼んでしまったのは!」

と頭を抱える。

神田博士は、その晩、人生で一番目まぐるしく、多忙な、そして「ペスト」のリウー医師もかくやというほどの超人的な活躍を見せた。

まず、若菜の急変対応。

これは、結局、神田博士の奮闘も甲斐なく終わった。

磯田若菜、享年27歳。死因は、天然痘による多臓器不全。

次に、保健所に一類感染症発生の報告。

12時前に保健所に、神田博士は電話で第一報を入れた。

「感染症担当をお願いします」

と言ったが、夜間帯のため、各担当者は不在で、当直対応しかできない、翌朝に担当者に伝えます、などと、その当直は呑気なことを言っている。

神田博士は、ことの重大性緊急性を説明するが、保健所の応接者はピンときていないようだ。困ったものだ。

まごまごしておられず、電話を切り上げる。

そして、感染者・接触者の対応。

中島医師はおそらく感染・発症している。

隔離病棟で診る必要がある。

それに、濃厚接触者も、要隔離だ。

磯田福田両家の人間はすでに病院に来てしまった。とりあえず、若菜の病室から決して出ないように厳しく指示してある。彼らはじめ、若菜・中島医師の同僚や家族、接触した病院職員を隔離しておく居所を作らねばならない。

それから、中島医師の治療。

中島医師は幸い帰宅しないで、仮眠室で休んでいた。

神田博士が訪ねると、「ありがとうございます」と横臥したまま言うだけで、起き上がるのも大儀そうだ。

「体調は良くないかな…?」

「ええ、申し訳ありません…」

神田博士が診ると、中島君の耳介周囲、口角、鼻の脇に水疱ができてきている。直径3〜4ミリで、真ん中に軽い窪みがある。天然痘に特徴的な水疱だ。

「中島先生。だいぶしんどいと思うが…」

「ええ、かなり熱っぽくて悪寒もひどいんです…何か抗生剤を点滴してもらっても良いでしょうか?」

「いや、先生、私がみたところ、これはもっと違う病気かだと思う」

「違う病気?なんですか、それは…?」

「これはたぶん、天然痘だよ」

中島君は、絶句して、何も言えないでいる。

神田博士は、中島君は優秀な医師だから、その意味するところを理解し、ショックを受けているのだと分かった。

しばらくして動揺を押し隠すように中島君は口を開く。

「なるほど、若菜も天然痘なんですかね?」

「ああ、私はそう思ったよ」

この期に及んで、自分のことよりも若菜を思いやる中島君。

神田博士は、いまは若菜が亡くなったことは伝えないでおくことにした。いま、そのことを伝えるのは酷だろうから。

「しかし、天然痘だなんて…生物テロか何かでしょうか?」

「ワシにも分からん。少なくともうちが標的になる心当たりはワシにはないんだがな…」

中島君は、目を閉じてダルそうにしている。

「ともかく、ほかのことはワシに任せて。先生は、いまは自分の治療に専念して。良くなったら、また力を貸して欲しい」

と励ますと、中島君は力なく小さく頷いた。

8、名医登場

すでに発症した天然痘の治療は対症療法しかない。

誰が中島君の治療に対応するか?

天然痘に対する免疫を有している蓋然性が高いのは、ある世代より上、たしか1970年くらいだったか…

それより以前に生まれた者だ。

この年代の者は、基本的に乳幼児期にワクチンを接種しているはずだからだ。

しかし、まだ抗体が持続しているかは分からない。あまり高齢だと、ワクチンの効果は切れているかもしれない。当面、治療医師は自分がなるとして、看護は50代の者に治療に当たってもらうのが適切だろうか。

ともかく、当直看護師は若菜の看護で濃厚に接触し、年齢条件も満たしている。

まずは彼女に中島君の治療に当たってもらおう。

当直看護師に、中島君の治療に当たらせることにし、点滴はじめ治療の院内PHSで指示を出す。そして今夜は仮眠室から不用意に出ないように言い添える。

それから、磯田家福田家の人々はじめ、隔離対象者の居場所は?発症者の居た場所の除染も必要だ。

なんだかんだで、もう午前3時。夜の帳も明けようとしている。

体力自慢の研修医と、若い看護師も動き回ってヘトヘトになっている。

と、その時。

急患用出入口の扉がバンと開いた。

黒いマントに蝶ネクタイの男。顔には地図記号の私鉄線のような傷跡が左頬を斜めに横切るように走っている。

「君!今夜は外の急患はもう受け付けないんだ。救急車もウォークインも。すぐに帰ってくれたまえ!」

神田博士が決めつけるように言うが、男はその言葉を無視して

「ここが神田病院かな?」

と落ち着き払って尋ねる。

「ああ、そうだか…門のところにデカデカと書いてあっただろう」

「そうか。私は医師だ。私が来たからもう安心だ」

男はニヤリと笑って言う。

「す、するとあなたは、…保健所の?」

「…保健所…そう、私は保健所の方からやってきたんだ」

保健所の当直担当者が、手配してくれた医師なのだ。電話口ではぼんやり者のように思ったが、やることはちゃんとやってくれる。

神田博士は、大きな援軍がきたことに安堵した。

「私の名前は茶谷純一。ブラウン・ジャックと呼んでくれたまえ。」

神田博士も、研修医も看護師も作業の手を止めて黒づくめの医師に冷たい目を向ける。鼻白む茶谷医師。

「…あ、うん。…そうか、いやなら、茶谷、茶谷先生、と呼んでくれたらいい」

「そうか、よく来てくれました!」

と神田博士も相好を崩す。

茶谷医師は、

「まず、仏さんにご挨拶しないとな。私も、患者を確認したい」

と申し出て、カバンから宇宙服のような防護服を取り出して着用する。

神田博士が、

「さすがに準備がいい。…それにしても、物々しいですなあ」

と言うと、

「天然痘なんでしょう?当然の対応ですよ」

と茶谷医師はニヤリとして答える。

ドアを開けると、悲しみにくれて疲れ果てたような磯田家福田家の人々が一斉に振り向く。茶谷医師の物々しい風態に、驚いて口をあんぐり開けている。

「ああ、そうでした、家族が来てしまったので、とりあえず若菜さんの病室から出ないように指示していたのです。みなさん、こちらは茶谷医師です」

「当然の処置でしたな。…みなさん、私が来たからもう安心です」

自信満々に茶谷医師は答える。

病室に横たえられている若菜には、顔に敷布がかけられていた。エンゼルケアーー院内で亡くなった患者に納棺前に施す化粧と衣装の処置ーーもなされていない。いや、おそらくエンゼルケアなど無く、手筈が整い次第、速やかに死体袋に入れられて荼毘にふされることになるであろう…

茶谷医師は、手袋をはめた手の指で敷布の端を摘みあげて若菜の顔を一瞥する。

そして、納得した、というように、ふんふん、と頷いている。

「やはり、天然痘だね、間違いない。」

松夫が、

「えへえっ、天然痘」

とぎゃふんとしている。

紗江が、

「私たちは…どうなってしまうんですか?」

と、すがるように茶谷医師に尋ねる。

「そうだね、ある年齢より上の者…1974年より前に出生した者は、ほとんど病気にかかることはないだろう。それ以降に生まれた者は、ウイルスに曝露していれば、発症の可能性がある。」

松夫が

「すると、僕と紗江とお母さんは大丈夫で…勝男君とタロちゃんとかおりちゃんは危ない、ということですか?」

と尋ねる。

「生まれた年がそうなら、そうなるでしょうな。もっとも、あんまりご高齢だと、抗体が失われている可能性もあり得ますがね。」

「じゃあ、僕たちはどうやって治療すればいいんだ?!」

勝男が怒ったように言う。

「治療は対症療法しかありませんな。致死率は…おそらく10〜20%と考えられます。」

「私たち、そんなに死ぬ可能性が高いの?」

かおりちゃんが手で顔を覆って泣き出す。

「いやいや、諸君はまだ発症はしていないようだ。諸君がウイルスに曝露したのは、若菜ちゃんが陽性症状を示し始めたころと考えれば、曝露後、数日というところだろう。君たちが今すぐやるべきことは、可及的速やかにーーできれば今日から数日以内にーーワクチンを接種することだね。」

「その、ワクチンって、どこで打ってもらえますかー?」

と、舌ったらずな言い方でタロちゃんが尋ねる。

茶谷医師は、腕組みしてしばらく考えてから、

「国内外のいろんなところに配置されているが、なかなか一般人には手が届かないようになっている…つまり、天然痘は生物兵器として作られることがあるから、各国軍隊や国家施設、日本なら自衛隊が保有しているはずだ。」

「自衛隊!はやく自衛隊にいかないと!」

松夫が慌てたように言う。

紗江が

「私たちは隔離されているのよ、あなた。自衛隊に助けに来てもらうのよ!」

と嗜める。

家族一同は、ワクチンに希望を見出してホッとした様子だった。

神田博士も、

「保健所経由で、ワクチンを手配してもらえるんだろう?」

と茶谷医師にすがるように確認する。

病院中の若い職員がウイルスに曝露された可能性があるから、自衛隊からのワクチン供給は頼みの綱だからだ。

茶谷医師は、

「もちろん、かけあいますよ…」

となぜか言葉尻を濁す。

そして、ピンセットで、若菜のかさぶた、膿汁、表皮を少しずつ採ってマイクロチューブに入れる。

そして、神田博士と茶谷医師は、中島君が居る仮眠室を回診する。

ドアを開けると、中島君がぐったりと横になっている。腕には点滴の針が刺さっている。

付き添いの看護師も、座って簡易机に突っ伏すように眠っている。

医師たちが来た気配ではっと目を覚ます。

「どうだね?中島君は?」

「お熱は39.7℃まで上がって、ずっと発汗がひどく、喘ぐような呼吸ですね…」

茶谷医師は、またもや中島君の顔をひと目見て、

「あー、やっぱりそうだね。君…中島先生か、中島先生は、若菜さんと接触は多かったかな?」

「はい…婚約者です…」

「そうか。」

そして、神田博士に

「天然痘だね、間違いないよ。症候的にも、状況的にも。もう、顔面や手にも水疱が多発し始めている。」

と耳打ちする。

確かに、神田博士がさっき会った時よりも、明らかに水疱の数が増えている。

「治療はどうしますか?対症療法?あ、それから、若菜さんが亡くなったことはまだ伝えていないのだが…」

「分かった。まあ、対症療法しかないね。あとは、体力勝負だね…」

仮眠室から出て、神田博士は、

「隔離の対策は…どうしますか?早い職員はもう出勤してきますが…」

と茶谷医師に尋ねる。もう午前7時を回っている。

「そうだな、出勤してきた職員には、持ち場の中にいるように伝えなさい。決して外に出ないように指示して。守衛にも伝えて。若菜さんの家族は、とりあえず研究所内にいてもらうことにしよう。若菜さんが発病まで勤務していたんでしょう?」

「ええ、私もそうしようかと思っていました。あそこなら、仮眠室やシャワーも備えているので、好都合だと思う」

分かった、と言いおいて、茶谷医師は勝手知ったように研究所に向かう。

9、蒸発

信田は、呑気にその日も定刻ギリギリの9時に出勤してきた。

信田が研究所内に入ると、普段よりも人が多くて騒々しい。

ざわつく思いをかかえて、自分の机に向かうと、途中で事務員に呼び止められ、

「信田さん、今日は許可なく建物の外に出ないように、とのことです。研究所内でお過ごしください。」

と淡々と告げられる。

「何?なんでそんな指示になったの?」

信田に不吉な予感がよぎる。

自分のデスクがある部屋に入ると、見知った顔が自分の椅子に座っている。

「のぶたくん!」

その男は、咎めるような目つきで信田を睨めつける。

黒いマントに蝶ネクタイ。顔には地図記号の私鉄線のような傷跡が左頬を斜めに横切るように走っている男…

そうだ、こいつは…

「信田くんは、体調は問題ないんだろう?」

「えっ…あ、はい…」

「君には一緒に来てもらうからね」

と、周囲に聞かれないように茶谷医師は信田に耳打ちする。

信田の表情が強張る。

信田の机周りの荷物を段ボールに詰めていく2人の背広の男。信田も知らない男たちだ。

茶谷医師は信田の耳元ですごむように言う。

「で、あのサンプルはどこにあるんだ?フリーザーか?」

「えっ、ええ…」

信田がオドオド答える。

「さっさと取ってこい!」

信田がバネ人形のようにすっ飛んでいく。

「本当に、のぶたくんはしようがないなあ」

10分後。

信田は2人の背広の男たちにはさまれて研究所から出ようとする。

守衛が両手を広げて、とおせんぼするようにして、

「出ないで!出てはいけません!」

と制しようとする。

すぐ後ろからついてきた茶谷医師が、

「いや、この人たちはいいんだよ。行かないといけないところがあるから」

と言って、ごくろうさん、と守衛の肩をポンと叩き悠々と通っていく。

守衛も、そうなんですか?、と4人の後ろ姿を見送る。

4人が門を出ると、すぐにどこからともなく来た車が現れ、彼らの目の前でドアを開け、4人を乗せてすぐに走り去っていった。

さらに10分後。

保健所からの車が到着。

慌てたように、白衣にフェイスシールドをつけた職員たちが降りてくる。

「保健所の者ですが…神田博士はいらっしゃいますか?」

と守衛に尋ねる。

守衛は戸惑って対応する。

「えっ、保健所の?また?」

「ええ、深刻な感染症が発生したと神田博士から報告があったのでやってきたんですよ」

守衛が神田博士に電話でこの来客のことと、茶谷医師が去ったことを伝えると、

「保健所で担当者を入れ替えてきたのかな」

などと訝しそうに呟いた。

10、夢

疲れたなあ…

しかし、誰かに代わってもらうわけにもいかないし。

トップというのは孤独なものだな、と執務室で山積みの書類に目を通しながらしみじみ思う。

いやいや。

別の者がトップだった時ときたら!

あれは本当に大変だった…

世間的にはいろいろ批判もあるようだが、私のやり方は、後の者のお手本になる部分も多いのではないかな、とひそかに自負している。

大きな持病がありながら、10年近くトップを続けたのも誇りだ。

うーん、と伸びをして、目を閉じて小休止する。

と、その時。

ひょいん、と軽やかな音が聞こえたので、目を開くと、いつの間にか、真ん前にメガネをかけたスポーツ刈りのおじさんが立っている。

「誰ですか?あなたは?」

と驚いて尋ねる。

不審者?

いや、警備厳重なこの部屋に入ってきているということは、誰かがここに案内してきた客かもしれない。そういえば、どこかで会ったような気もする。

スポーツ刈りの男は、ニタッと人懐っこい笑みを浮かべて、

「神様です」

と自己紹介する。

唖然として見つめていると、神様は、ひとり語りに話していく。

「田部さん。今日は総理大臣であるあなたに、これから起こることについての対処方針を選択して欲しくて来ましたよ。」

「は?対処方針?選択?」

何が何やら分からないうちに、神様は話を続けていく。

「これからこの国に深刻な流行病が蔓延しようとしています。そこで、総理であるあなたに、決断をしていただきたいと思います。」

「は?流行病?」

「ええ、深刻な流行病です。それが、蔓延すると100万人の国民が亡くなります。蔓延しなければ1万人の死者で済みます」

「ええっ!100万人…蔓延しなくても1万人!?」

「そうです。それも、若い世代が中心です。それくらい深刻な流行病です」

「そんな…あんた、神様なんだろ?神様なら、そんな災いをなんとか抑えられないのか?」

「あー、神様にもいろんな領分と力がありますからねえ…私のパワーでは、災いを消すことはできないですねえ」

「ふーん、そんなものなのか…で、どうやったら1万人に抑えられるんだ?」

「それはですね、2週間ほど、国民の移動を制限し、会社や学校を休ませ、治療と予防に専念するように指示することです。」

「は?移動の制限?会社も学校も2週間休ませる?そんなことできるわけないだろう!両方とも、自由主義経済を信奉する我が国の根幹をなすルールですよ!?」

「そんなことは、分かっています。」

と、神様は昂っている田部総理をいなす。

「それに、仮に必死で対策を打って、それでも1万人の死者が出たとなったら、私は相当責任を問われるだろう。」

「それでは、100万人が亡くなる方を選びますか?」

「何を言ってるんだ、そんなことを看過するわけないだろ」

「でも、とりあえずの批判は受けませんよ?大量の死者が出始めてから対策を出した方が、国民を納得させやすいですし。死者が出たのも、流行病だから仕方がない、と同情論も出るでしょうし。」

「…つまり、99万人の命と、私の政権や名誉とが天秤にかけられている、ということなのか?」

「突き詰めて言えば、そういうことになりますね。さて、どうしますか、総理?」

ニコニコしながら神様は改めて問いかける。

「決まってるだろ」

と田部総理は躊躇いなく神様に言う。

「ほう。どちらですか?」

「1万人を選ぶよ。」

「そうですか。いいんですか?後で散々な批判を浴びることは必定ですよ?」

「うん、分かるよ、分かっているよ。確かに、国民は、すでに起こってしまったことにはすごく不寛容だ。一億総コメンテーターになって、バッシングするんだ。私はそれを経験したからね。」

「なるほど。hindsight biasですね。」

「は?」

「Hindsight bias。後知恵バイアスと呼ばれるものですよ。決断を迫られる人について回る問題ですね。」

「後知恵バイアス…」

「そうです。あなたは、すでに経験したのに、また同じ経験をするつもりなんですか?」

「うん、まあ…そういう仕事なんだからねえ、仕方ないね。」

神様はウンウンとうなずく。

「分かりました。その決意や良し!」

そう言って、神様は来た時と同じように、ひょいん、と軽い音を立てて姿を消す。

「あっ、おいっ!で、私はどうしたらいいんだ?!」

「適宜、あなたの持っている確かな情報を間をおかずに広く国民に流すことです。そうすれば道は開かれるでしょう」

はっはっは、と高笑いを残して神様の声も消えた。

総理、総理、と肩を揺すぶられて、田部総理はうたた寝から目を覚ました。

「総理、大丈夫ですか?ずいぶんうなされていたようですが。」

官房長官の菅田大臣が心配そうに見ている。

「そうか、夢か…」

「変な夢でもご覧になっていたんですか?閣議の時間になりますよ、早くシャワーでも浴びて、身だしなみを整えてください」

11、春の嵐

4月15日。

新年度も始まって、春らんまんの日本社会は呑気にスタートしていた。

総理官邸でも、大臣全員が集まって開かれたいた閣議で、一同浮き浮きとして笑いが絶えない。

つつがなく議事を済ませて、情報交換とも雑談ともつかない閣僚懇談会の最中。

厚生労働大臣の吉山が、呼び出されて中座する。

吉山厚生労働大臣…

率直に言って、あまり虫が好かないタイプの人間だ。

勘は悪いし、無責任な性格。迎合主義で、いつもヘラヘラしている。

まあ、大臣に任命したのは私だから、文句は言えないのだが。

しばらくして、懇談会に戻ってくるなり私のそばににじり寄るにして、話すことには、

「総理、指定感染症が発生したという報告がありまして…」

などと言う。

「うん、それで?」

「早めの対応が必要なので、総理のお耳にも通しておこうと思いまして」

と、吉山は奥歯にものが挟まったように言う。

「そう。一体何があったの?」

「ええ、天然痘という病気が発生して地域の保健所に報告が来たので、私のところにもいま一報が来た次第で」

「天然痘?」

私はギョッとして聞き返した。

「ええ…確か、天然痘、と言っていました、そう思いましたが…」

「我が国でかね?いつ?」

すぐ隣に座っていた、菅田官房長官とさらに隣り座っていた森立IT担当大臣も聞き耳を立てている。

「いや…それが今報告が上がってきたばかりなので、私のもなんとも分からないんですが…」

「何を言っとるんだ、君!天然痘を知らんのか?根絶されたことになっとる、深刻な感染症だぞ?」

と菅田官房長官が叱ると、

「えっ?そうなんですか?いやあ、あんまり…」

と、吉山はしどろもどろで答える。

森立大臣が、

「吉山大臣、すぐに対応しないといけませんよ、これは。発生状況、場所と時間と患者数を把握して。たぶん患者と接触者を隔離すると同時に、治療する医療機関を選定しないといけないでしょう。省内の感染症専門の事務官、できれば医官を選任して事態に当たらせないと。」

と、菅田官房長官の怒りをいなすように助け舟を出す。

「はあ、分かりました…では総理、私はこれにて失礼いたします」

とそそくさと退席していった。

12、安楽椅子探偵ベッドディテクティブ

勝男は、イライラと研究所の一室で焦れていた。

保健所の職員に

「あなた方はこれから法律の要請に従って隔離されます」

などと言われて有無を言わさずこの建物に押し込まれた。勝男たちは、それにしぶしぶ従った。今日一日でいろいろ検査などされてから帰されるのかと思っていたが、昼過ぎになってから、のこのこと役人がやってきて、しばらくここで暮らすことになる、などと言うではないか。

もっとも、紗江や松夫や舟は、隔離の必要があるのは、若菜の病気・天然痘がうつっている可能性があるからだと説明されて不安が高まり、むしろ病院の近くで隔離されている方が安心だ、と思っているようだ。

勝男は持ち込みを許されたスマホで、天然痘について調べた。

もう根絶されたはずの病原性ウイルス。アメリカとロシアだけが厳重に管理されたところで保管している。ただ、WHOによる根絶宣言以後も、バイオテロに用いられる可能性がついて回るという。

バイオテロ…?

日本で最も平凡でありきたりな磯田家福田家をテロで襲う?

どうして?

苦しみながら死んだ若菜。

アイスピックで勝男を襲ってきた通り魔。

磯田家に侵入してきた暴漢。

全部がつながっている…

磯田家は狙われているのだろうか?

いや、もしかしたら日本が…

勝男は、若菜の椅子に腰掛けてみる。

なんていうことのない、事務用の回転椅子。

勝男には、すこし小さめで低い。

小柄で明るい若菜のことが思い出される。

目の前の机には、生物工学の教科書や実験書、事典やノートパソコンがきれいに整理されて置かれている。

魚型のふせん、貝殻型のクリップ、そして、よく髪を束ねていた蝶々型のリボンが、あるじを失って寂しそうに見える。

小さなホワイトボードには、家族の写真。中島君の写真ではなくて、家族の写真というのが若菜らしい。

隣の席の椅子にかおりちゃんがが座る。

「新婚旅行から帰ってみたら、大変なことになったわねえ…」

とやつれた表情で勝男に話す。

新婚旅行から帰ってきてからは、立て続けに大きな事件が起こって、しみじみ疲れているのだろう。

「かおりちゃん、ずいぶん疲れただろう?」

「いえ、勝男君こそ。お仕事も大変なのに。」

とお互いをいたわり合う。

「ここが若菜ちゃんの席だったのねえ」

「うん、あいつが生きていた時の感じを思い出すよ」

「形見に、何かをもらってもいいかしら?」

と、かおりちゃんは文具品に手を伸ばす。

「あ、ダメだよ。たぶん、消毒しないと渡せない、とか言われるんだろうな」

「あ、そうか、そうよね…」

とかおりちゃんは伸ばした手を引っ込める。

勝男は、たぶん、これら若菜の遺品は消毒なんてことではなくて、焼却処分されるだろう、と思ったが、かおりちゃんには言わない。

「刺されたところは大丈夫かい、かおりちゃん?」

「ああ、大丈夫。刺されたっていうより、引っかかれた感じなんだけど…」

かおりちゃんは、刺された左上腕を見せる。

長さ5ミリくらいにわたって細い傷口がある。確かに、すこし深く刺された、という感じだ。

「勝男君は?大丈夫なの?」

ああ、と勝男君も腕まくりして傷口を確認する。

勝男君も、右上腕に刺された跡があった。しかし、引っかいたようではなく、キリがアイスピックのようなもので刺されている。刺された穴が2つ並んでいる。ふた股に割れたもので刺されたようだ。

「なんで、こんなことを…?」

「若菜ちゃんの病気と関係あるのかしら…?」

勝男君の直感では、何か関係がある、としか思えなかった。

でも、どんな関係が?

「若菜も、もう地球上にはないはずの病気にかかったんだよな…」

勝男君は、若菜の机の上を見渡す。

何か違和感を感じる。

そうだ、隣…勝男君たちがここに来た時は、隣の席には山のように荷物が置かれていた。

それが、いまは無くなっている。

勝手に持ち出すのはまずいはずなのに。

若菜の机の上に、薄汚れた発泡スチロールの小さなクーラーボックスが転がっている。これは確か、隣の席にいくつか積み上げられていた。そのうちのひとつが若菜の机の上に転がり落ちて、持ち去られるのを免れたのかもしれない。

クーラーボックスに貼り付けられている伝票を見る。

宛先は信田伸夫、送り主は「青空会」、住所は群馬県××市になっている。

「青空会」…

スマートフォンで検索をしてみたが、それらしいものにはヒットしなかった。

そこで、住所で検索をかけると…

あった。

「省教 青い空の会」

と出る。

クリックすると、会の設立目的が書かれている。

「当会は、ひとりひとりが自分自身を見つめ直す場を持つために設立されました。」

「現代社会は、インターネットの発達のために情報がひとり歩きし、間違った価値観、歪んだ自己評価が流布しています。」

「私たちはひとりひとりが科学的論理的に、価値観・自己評価の歪みを修正し、肩の力を抜いて自然体で生きていける内的健康を涵養することが目的です。」

「そのために、極力外部との接触を避け、自給自足の生活の中で、論理的態度・科学的思考を身につけるよう、お互いに切磋琢磨していく会です。」

勝男君は、画面を覗き込んでいたかおりちゃんと顔を見合わせる。

「なんだか、おかしな宗教だね」

「いや、当会は宗教ではない、自己の内面を省みるための集いなので、『省教』と呼ばれるべきものだ、なんて書いてあるわよ」

勝男君は、これは調べる必要がある、と感じた。

勝男君は、思い切って代表番号に電話をかける。入会希望者もここに電話するように案内されている。

呼び出し音が2回鳴ってから、

「はい!青い空の会でございますー」

と朗らかな女性の声が電話口に出る。

何を尋ねるか、準備していなかったので、勝男君は

「えっ、ああのっ…」

としどろもどろになってしまう。

「お悩みの相談ですか?それとも、入会希望ですか?」

と女性が親身そうに声色を落として尋ねかけてくる。

「いや、あの、そちらに信田さんはいらっしゃいますか?」

「えっ、信田…さんですか、えー…ちょっとお待ちくださいませ」

と、エリーゼのためにの保留音に切り替わる。

1分ほども待たされただろうか。

電話から、打って変わって野太い男の声が聞こえる。

「失礼ですが、どちら様ですかね?」

「こちらは、神田研究所の者なんですがね、信田さんの忘れ物があるので、どうしたものかと思いましてね。」

「…どうしてこの電話番号にかけてきたんですか?」

明らかに怪しんでいる。

「実験用に使う瓶のような物なんですが、そこにおたくの電話番号が書かれていたから、電話してみたんですよ」

「瓶に?うちの電話番号が?」

男は動揺しているようだ。

「信田さんはいらっしゃるんですか?」

「へっ?えっ?信田…ねえ、そういう人がいるか、確認してみます。また折り返しますから」

と一方的に電話を切った。

勝男君は、信田はここにいると確信した。不審なやりとりであったからだ。

信田の名前で動揺したこと。

電話番号で繋がりがあることを知られるのを避けたかったふうであること。

かおりちゃんも、スマートフォンに耳を寄せて一緒にやり取りを聴いていたが、

「怪しい会ねえ…」

と眉をひそめている。

どうしよう…

できれば、ここから出て自分で足を運びたいところだが、当面は隔離が続くだろう。

では、職場の上司に依頼して、警視庁から群馬県警に捜査の依頼…?

いや、電話で説明しても伝わるものでもないだろう。

そもそも、何をどう捜査してくれと依頼したものか…

その時、スマートフォンが鳴る。

表示を見ると、「鼻沢華子」。

電話に出る。

「磯田くーん!大変だったわね、今回のこと。なんと言っていいか…お悔やみ申し上げます」

と、懐かしいダミ声が聞こえて来る。

若菜と浪平が亡くなったというのは聞いているのだろう。

「お葬式はいつなのかしら?良かったら私も出席したいんだけど…」

「いや、花沢さん、それがお葬式どころの話じゃなくなって…」

「お葬式どころって…数日で2人も亡くなったのに、それよりも大きなことが起こったの?」

「うん…実は、若菜の病気は、感染力が強い、怖い病気だったらしくて。僕たち、隔離されているんだ。」

「えっ、そうなんだ!隔離って…自由に動き回れないってこと?」

「うん、そうなんだ…」

「若菜ちゃん、そんな怖い病気に…浪平さんは、その病気にかかったの?」

「いや、父さんは、若菜が病気で苦しんでいるのをみて、心労から亡くなったんだ。」

「そうだったんだ…ほかのみんなは?何か症状は出ているの?」

「いや、今のところ大丈夫」

「そうなんだ…でも、そんな怖い病気が、日本にもあるなんて…」

「僕もそれが不思議でならなくて。」

「ふーん…勝男君としては、何か不審に感じる点があるんだ?」

「そう、そうなんだよね。だから捜査したいんだけど、いまは隔離されていて、思うままに動けないから困っているんだ」

「なんだ、そんなこと」

「え?」

「私に任せてよ!勝男君!私が勝男君の指示どおりに動くから!」

「そんな、花沢さん、そんな大変なことは頼めないよ」

「水くさいわねえ、勝男君たら!私たちの仲じゃない。」

「いや、でも…」

「それに、もし何かの陰謀なんだったら、私も若菜ちゃんのためにかたき討ちをしたいんだから」

「うーん…」

「ね、お願い!」

「わかった、じゃあ少しお願いすることにするよ」

「任せといて!」

小学校のときのように、ドン、と花沢さんが胸を叩く音が聞こえたような気がした。

投稿日:2020年4月18日 更新日:

執筆者:

これまでのまとめ…

新規ページに全部移そうかと思いましたが、旧ページもなかなか手作り感がありいいかな、と思い、コピーページとして残しました。ページを移植するのが面倒くさかったわけではありません!断じて!…いや、たぶん…? …

開催場所
四谷ルノワールか、高田馬場カフェミヤマのことが多いです。

開催日時
月1回開催。毎月第3か第4日曜日が多いです。

どうぞお問い合わせください
hisayan45-a2@yahoo.co.jp

芥川賞の歴代受賞作を読んで、お互いの感想を述べあいながら理解や感想を共有する会です。  (たまにはノーベル賞ピューリッツァー賞ブッカー賞ゴングール賞もやりたい)

当会は平成26年4月から始まりましたが、当会の前身となる「灯下会」はさらに数十年の歴史があるとのことです…

このページでは、これからの会の予定とこれまでのまとめを載せていきます。  毎月第3か第4日曜日の午後3時から。(最近は第4日曜が多い。)  場所は都内某所(たぶん四谷あたりの喫茶店)。  会費は特にありません(自分の喫茶店の代金と、2次会に行った場合は割り勘で。)

芥川賞は、書かれた時代の社会を映し出している側面が強いので、  その時代の雰囲気・空気みたいなものまで感じることができれば良いなと思っております。

参加者のほとんどは、文学を専門にしたことがない人ばかりです。  和気あいあいと、自由に議論していますよ!  よろしければご参加ください。

当会の活動の履歴、これからの予定、その他お知らせするサイトです。