おそらく日本で最も権威と知名度が高い文学賞といえば、芥川賞と直木賞であろう。 当会も芥川賞読書会と銘打って、歴代受賞作を読んで文学の深さや書かれた当時の空気というものを味わってきた。
しかるに、近年の芥川賞選考は、いかがなものか、と首を傾げざるを得ないことがしばしばである。 今回(第161回)は特に頂けないと感じたので、主催者はここにひと言、意見を記しておく次第である。
選考会場の実際の議論は私たち外部の者には知りえないので、選評について述べる。 おもには、古市憲寿氏「百の夜は跳ねて」(「以下「百の夜」)の選評であるが、本作の末尾に参考文献、なるものが列記されている。その中に木村友佑氏「天空の絵描きたち」(以下「天空」)文学界2012年10月号が含まれていることについて、議論が出ているようである。
何人かの選考委員が、「百の夜」は「天空」と似た部分があり、不正とみなしたようであるが、これはどうであろうか。 当ホームページでも両作品の詳しめのあらすじを載せたが、そんなに似ているとは思われない。
前者は勤務時間中にサボっても悪びれない、後者は労働は素晴らしいことだと描かれている。作品のメッセージは全然違うものになっている。 社長・先輩が墜落死するエピソードと、人が死んでもそんなに記憶になど残っていないものだ、と語る部分が若干かぶるが、「百の夜」の中心部分ではないし、それも十分違うふうに書かれていると思う。「かっぱいで」などいない。 また、主人公が凡庸な価値観を持っているのは、むしろ「天空」のほうではないだろうか?さらに、作者と登場人物は別個のものである。登場人物の性格描写をもって作者に対して「お前も同じだろう」などというのは言いがかりも良いところである。
「天空」の方が「百の夜」よりはるかにおもしろい、と本気で言っているのだろうか?そうだとしたらその選考委員は辞退したほうが良い。それに、もし本当にそう思っているのなら、これが発表された時の選考会で、なぜ候補に挙がっていないのか?と言うべきなのではないだろうか?「もっと巧妙な何か」とは何だろう?
結論から言います。 私も悲しかった。 どのへんが生のままなのでしょうか?
私は最近、ロビンソンクルーソーを読んだが、あらゆる冒険小説は似ているなあ、などと感じたものだ。 それを子供向けに単純化して「十五少年漂流記」といったジュブナイルになったり、裏返してみせて「蝿の王」といったディストピアものになったり。
小説とは元来そういうものであるby奥泉「石の来歴」光氏。(「石の来歴」、大好きです!実は、「蛇を踏む」も「パーク・ライフ」もめちゃくちゃ感動しましたーヽ(´▽`)/)
すこし強い口調になってしまったが、私としては、今回は、悲しいというより、ちょっと怖かった。 マスコミやSNSも選考委員の非難に同調する者が多く、みんなで古市さんを袋叩きにしているふうにしか見えない。 公然とイジメを行っている。 「百の夜」は小説としてはよく出来ているのは間違いないと思う。 何が良くないのか、抽象的な言葉でなく、きちんと指摘すべきである。
権威ある者が、むやみに強い言葉で新人を貶すことは慎まねばならない。これでは批判された人は書く気を削がれてしまうし、どこを修正すればよいのか、分からないのではないだろうか? せっかく取材までして書いた小説なのに。
過去の大作家と言われる人たちも、自分の足で取材をして名作を書き続けたのだと思う。 小説家も社会学者も、自分の足で歩いて、経験して取材しないといけないと思う。 文学の衰退が叫ばれて久しいが、こんなことではそれも道理ではなかろうか。
(・∀・)(・∀・)(・∀・)(・∀・)(・∀・)
今村夏子氏の「むらさきのスカートの女」は素晴らしかった。メタな構造になっていて、作品の世界観がなかなか楽しい。人物も生き生きしているし、ふるまいのひとつひとつにも意味が与えられている。
