令和元年11月
「赤頭巾ちゃん気をつけて」庄司薫(新潮文庫))
『赤頭巾ちゃん気をつけて』は、進学校である日比谷高校に通う十八歳の少年の、一日の思考をめぐる長くて短い冒険譚だ。
六十年代の終わり。学生運動のあおりを受けて、入試が取りやめとなってしまった東京大学。受験校を失った主人公「庄司薫」は、いっそのこと大学への進学そのものを止め、大学という枠の外で自らの知性を育てることを決意する。
そもそも「知性」とは何か。
ガールフレンドの由美の元へ向かいながら、薫はこう考える。
「すごく自由でしなやかで、どこまでものびやかに豊かに広がるもので、何か大きなやさしさみたいなもの、そのやさしさを支える限りない強さみたいなものを目指していくものじゃないか」
誰もが通る青少年期の憂鬱と悩みを抱え、薫は己の自意識を独特のスタイルでつらつらとよどみなく綴っていく。
格式ある《意識の流れ》ではなく、あっちへこっちへ意識を飛ばしながら薫が自らの言葉でつむぎ出す結論に、大人になった読者は頷いたり首を傾げたりしつつも、知性とは/自由とは/勉強とは/品性とは何かを考えざるを得ないことになる。
あまりにも饒舌な薫の思考に引きずられないよう、気を引き締める必要すらある語りの上手さは圧巻だ。
思わせぶりなタイトルの意味がようやく見える物語の最後。出会った小さな女の子に「気をつけて」と投げかる薫の声が聞こえるような、やさしさに満ちた銀座の情景はあどけなく美しい。
溢れ出した思考の荒波を包み込む銀座の夜を背景に、ほのかな感動を滲ませる終章を終えれば、読者は薫のかけがえのない一日を追体験した満足感を得られるだろう。そしていつか再びこの小説を読んだ時、「知性とは何か」と振り返り考えることになるだろう。
『赤頭巾ちゃん気をつけて』は、たった一日の物語である。
一日の出来事が、五十年後の今も新たな読者を得て読み継がれている。
こういう作品によってもまた、小説の力を信じることができるのだ。
【読書会雑感】
J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』との類似性について。
『ライ麦』のホールデンと『赤頭巾』の薫による軽妙な独白口調や、恵まれた中流以上の家庭環境、深みに落ちそうな時に現れた小さな女の子(ホールデンの妹フィービーと銀座で出会う女の子)によって幸福感を得るラストなど、たしかに類似性はあるもののそれは共通点にすぎず、決して模倣ではない点、また明確な相違点があることを改めて知ることができた。
安田講堂事件を代表とする当時の学生運動を知らない場合、その時代を生きた薫たちへの共感は難しいかもしれない。しかし学生運動について分からなければ読めないものかといえば全くそうではなく、「大きな目標がすぽんと抜けた状態」「ぼくって何だったんだ」「何者かにはなれるだろうが、何になるか」という少年〜青年特有の気持ちは鮮やかに描かれている。この物語の普遍的なメッセージは現代にも十分通じるだろう。
『赤頭巾ちゃん気をつけて』のように内面をひたすら吐露するスタイルは今ではラノベやゲームにも引き継がれており目新しさはないが、物語としてやはり面白い作品であるという意見が多かった。このような内容で女性が語り手のものはあるだろうか?という話にも広がった。
(written by A.N氏、司会もありがとうございました!)
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