「ほかの人の頭から蝶が飛び出したときに備えて、捕虫網を持っておこう」
令和元年7月
「道化師の蝶」円城塔(講談社文庫))
シェイクスピアの作品を翻訳するのは難しいとしばしば言われる。
原文で表されているダジャレや韻をうまく別の言語に移植できないことがひとつの理由だと言う。
本作も、T章は作家・友幸友幸が無活用ラテン語という、今では使われていない言語で書かれた作品を翻訳したものである、という体裁になっている。
翻訳した結果、「原文に存在しているとも言われる文章効果については失われてしまったはずだ」P25という。
Tの文中に登場するエイブラムス氏の性別すら、正確さを失ってしまうほどに。
(現に中国語では発音するときは「彼」「彼女」「それ」は同じ音になるという。)
それだけ言語というものがそれが使われている社会の文化を象徴し、思考を規定している側面が強いことを銘記しなければならない、ということであろう。(まるで料理が文化をよく表すように?)
そして、飛行機の中にまで現れる蝶。
着想はいつなんどき捕まえられるか、なかなか予測がつかない。
しかし、まったく何の準備もなく着想が得られるわけではない。
自分の中で、自分自身では気がつかないうちに育まれ、あるとき浮かび上がってくるのだろう。
ちょうど蝶が卵を産み付け、卵が孵って幼虫・蛹となり、ある時不意に美しい蝶が空を舞うように。
その美しい蝶はまたどこかに卵を産み付ける。
着想というものはカスケード的にステップワイズに広がっていくものだいうことなのだろう。
(作品では、XからまたTにつながるようにも読める、との指摘があった。円環構造というよりもある人の着想がまた別の人の着想へとつながるような連鎖反応ということを表しているようだ。)
P79〜「老人」は、ナボコフを描いているのであろうと指摘あり。
蝶の研究家でモントルー・パレス・ホテルを定宿とし、妻の名がヴェラであることから、明らかにナボコフを意図してると。
なかなか難解な作品でしたが、会では、今回も丁寧に前から順番に読み解いて、随分理解が深まりました。
鋭い指摘も多くあり、助けられました。
翻訳ということ、言語と文化のつながり、小説の着想、について書かれているということが分かりましたが、ちょっとごちゃごちゃしていて整理されていない印象が強い。
(芥川賞の選考委員は、ちゃんと読めて理解できていたのだろうか?…ギワク…
たぶん、シュレーディンガーの猫は関係ないし…)
司会は、この会の2日後、足立生物園というところに行った。
屋内に湿度も気温も高くして蝶を放し飼いにしているゾーンがあり、熱帯・亜熱帯にしかいない蝶がたくさんヒラヒラ、ヒラヒラと舞っている。午後の日差しが窓から差し込んで、もわっとした空気のせいで本当に熱帯の国に来たような錯覚をおぼえた。
別の部屋では生きた雌雄同体のカブトムシが展示されていたりして、今回のテキストとの不思議なめぐり合わせ感じた。
…捕虫網は持っていなかったけど…
(持っていたら、入口で止められる)
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