「神に対して方法的懐疑を抱いてはいけないのだろうか?」

平成30年10月

「沈黙」遠藤周作(ページ数は新潮文庫上第60刷版)





物語は情景も登場人物の心情も、しっかりと丁寧に、しかもわかりやすく描かれている。時系列もまったく直線的に進んでいき、ストーリーは非常に追って行きやすい。

前半はロドリゴ神父が意気揚々と張り切って日本に潜入してくる様子が描かれる。強い宗教心がなければ乗り越えられないであろうほどの幾多の困難があり、ロドリゴ神父の情熱と宗教愛の強さが示される。

しかし、ロドリゴ神父は、転んだ(つまりキリスト教を捨てた)神父やキリスト教徒に対する冷たく厳しい仕打ちについて引っ掛かりを覚えている。特に、先輩神父として敬愛するフェレイラ神父が転宗させられたと聞いてから徐々に動揺が拡大していくようだ。
その動揺を見透かすようにつけ入るように、役人から逃れるためおろおろさまよい歩くロドリゴ神父のまとわりついてくるキチジロー。すぐに転んではロドリゴに秘蹟を求めてくるため、しまいにはロドリゴもうんざりしてしまう。

オドオドしているくせにいくら追い払ってもいつまでもついてくる。人間の弱さを嫌というほど見せつけるためにキチジローはどこまでもついてくる。


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私は中学高校がキリスト教の学校に在学していたので、生身の神父さんと触れ合う機会が多かった。どことなく浮世離れしているなあ、などと思ったものだ。

ある神父さんが、「カトリックとプロテスタントが共同で正統的な聖書の翻訳を作った。とても大きな出来事だ」などと言っていたのを思い出す。他宗教他宗派との交流を重要視するローマ法王ヨハネパウロ2世の呼びかけがあったからこそだ、などと自慢げに話していたっけ。

聖書というのは、キリスト教の教えの根幹・根本をなすもので、キリスト自身やその弟子たちの言葉や振る舞いを伝え、そこから教義を作り上げていく。宗派によって教義の差異があるから、翻訳が難しいのだという。まずは聖書があって、そこから解釈して教義を組み立てていくのが本来だから、本末転倒しているような気もするが、何にせよ大変な事業であったとのことである。

しかし、聖書に入れられるべきはどの書物で、どれを外すか、ということは紀元2,3世紀ころに相当もめた。そして325年のニケーア公会議で正統と異端とが区別され、それに伴い聖書の形もだいたい決まったということのようだ。つまり、異端とされた人々は今の聖書とは違った書物からキリストの言動を知りそれを解釈して、正統教会とは違うキリスト像を描き信仰していったのだ。祈るだけではなく知識を得ることによってこそ救済に近づくと考えるグノーシス派など。
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会では、当時の世界の政治経済状況から、日本もキリスト教を禁止せざるを得なかった、という話題も出た。西欧(主にはポルトガル)による謀略や不法行為が横行していたため、やむを得なかったのであろう。(そうしないと、日本もインカ帝国のように滅ぼされていたかもしれない。)

しかし、そんな社会の大きな流れが大きく変わったなどということは、ひとりひとりの宗教心とは別問題である。本来、宗教とは個人の心の内的なものであるはずなのだから。そのために信者たちは苦難に陥ることとなる。キリシタンであることが露見すると、役人に責め立てられ、それでも転ばなければ拷問にかけられ、命を落とす者も実際に多かったらしい。

ロドリゴ神父は、拷問にかけられ命を落とそうとしている信者たちを見かねて、ついに転ぶ。そして転んだ時にこそ、神を近くに感じる。「神は沈黙していたのではなく、一緒に苦しんでいたのだ」と。



現代では裏切り者の代名詞にすらなってしまったユダ。
キチジローはユダになぞらえられている。
キチジローは金でロドリゴを役人に売ったからである。

そのユダについて。
会では「ユダの福音書」が再発見されたというのが10年ほど前に大きなニュースになったという指摘があった。

この「ユダの福音書」によると、ユダがキリストを裏切り売ったという行為は、実はキリスト自身の指示によるものであると書かれている。ユダは裏切り者ではなく、キリストのこと弟子たちの中で最も理解しているとキリストから信頼されていたがゆえに、このような大きな役割を果たしたのだという。

宗教論争上は、グノーシス派が異端とされる理由としてはもう少しいろんな要素があるとのことで私にはわかりかねる部分があるが、個人的には「裏切り者にも言い分があるし救いもある」という形の方が教えとしてまとまっているように感じるし、物語としてもそのほうが座りが良いと思う。



遠藤周作さんは、この作品のために随分取材したのだなあ、と思った。たとえば、役人はキリシタンに対して、「形だけ踏み絵すればよいから」ということもあれば、踏み絵をしても「目の動きで、信心を捨てていないことが分かる」などと言い募ったりすることもあり、ちょっと不統一な感じがするが、当時の江戸幕府の実際の運用がそうであったらしい。

作者はかなり敬虔なクリスチャンであったそうだから、グノーシス派の考え方なども既に知っていたのかもしれない。
本作の発表で、作者は冷たい仕打ちを受けた、とエッセイで読んだことがある。
遠藤周作がキチジローであり、またユダであるのだ。

東洋の小さな国で、弱い神は再発見されたといえるかもしれない。



↓おまけ、今回のホワイトボード…


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