「藪の中をかきわけて」

平成29年7月
「冷血」トルーマン・カポーティ(ページ数は新潮文庫第15刷版)



1959年にアメリカで実際に起こった事件をもとに書かれた実録小説である。
作者が数年をかけて丁寧に取材し、基本的に土地や人物の名前も実際のままで事件を再構成した体裁である。


参加者のみなさんは、初めのほう(被害者一家の様子を描いたところ)は、「退屈である」、「殺される側が丁寧に描かれるのは珍しいと思った」、「被害者の生前が描かれるのが切なかった」といった感想を持ったようです。
人物描写がリアルである割に、結局ペリーが4人ともを殺したのか、2人が2人ずつを殺したのか、最後まではっきりとは分からないふうになっている。ストーリーの中では、犯行を実行する場面や裁判の場面で描写することができたはずであるにも関わらず。
犯人のペリーとディックは、刑務所内での囚人仲間の根拠の薄い話をもとに、クラッター家を襲うことにする。それも、いくつかの行き違いが不幸な偶然を産んでいたことが彼らの足取りをたどっていくと分かってくる。このふたりは、知的には必ずしも低くはないが反社会性向と衝動性が強く犯行に及んだ、ということになろうか。しかし、このように話を要約してしまうのは作者の意に反することであろう。
作者はどうしてこの作品を書いたのか?
今回の司会からの問いかけの一つである。(これはどんな小説にも問われるべき質問であるが。)
思うに、世の中に流布している小説や物語というものは、周りの者が後付けで勝手に味つけをすることが多く、それに対するアンチテーゼということが一つにはあったのではないだろうか。
犯罪が起こると善人・悪人に色分けしたがる、スポーツは麗しい健全なさわやかな物語にしたがる。大衆は麻薬のように、ありきたりな(理解しやすい?)ストーリーを欲しがっている。
しかし、現実はもっと複雑である。その複雑さを引き受けてより深い位置で理解することが現代人には求められているはずだ。
作者はそれを訴えたかったのではなかっただろうか?

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たしか下着泥棒で捕まった経験のある人のインタビューだったかと思うのだが、警察の取り調べで、かならず動機というものを聞かれるのだそうだ。
ところが、その人は下着泥棒をするのに特に理由などなかった。なんとなく盗ったという。しかし警察でそれは通用しない。通用しないというか、困るのだそうだ。調書を作成するにあたって、動機を書いておく必要があるというのだ。
そうして取り調べの中でお仕着せられた理由というのが「ムシャクシャしていたから」というものだったという。そういえば、ニュースで犯罪をおかした人の動機で「ムシャクシャしていたから」というのは結構よく耳にするような気がする。
犯罪発生のニュースを聞いた一般大衆は、犯人の動機があること、犯人の動機を知ることでとりあえず安心するのだろうか。安心したいのだろうか。それが偽の安心であっても。
本作の犯罪の動機も、犯人たちが大金を得るつもりが当てが外れたというふうに捉えればわかりやすい図式である。しかし、実際にはもっと曖昧模糊とした気持ちが為した行動と言わなければならないのだろう。
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本作は事実に忠実なストーリー展開ではあるが、作者が知るはずのないことも細かく描写されている。だからこそルポルタージュではなくて小説と呼ばれる所以なのであろうが、反発を覚える人もきっといるに違いない。(会では、むしろフィクションでも善人悪人をきっちり書き分けてほしい、そうでないからストーリーの座りが悪い、オチがなくて気持ち悪い感じ、などと言う人がいた。)
あまりフィクションを交えると、坂本龍馬みたいに突飛な人物像が独り歩きしたり、妹尾河童みたいに過剰に不当な自己演出をしてしまうことが許されてしまうなどの弊害が大きいのではないだろうか。

コカ・コーラの瓶を拾い集めてそれなりの収入を得られるところなどは、地道な正直なアメリカ人像、アメリカの豊かさが描かれている。
小切手詐欺にあっさり引っかかったり、気軽にヒッチハイカーを車に乗せるなど、まだまだ牧歌的な時代のアメリカが懐かしさをもって読むことができる。
裁判ではまず事実を争う、次に心神耗弱による減刑を狙う、というのは今と変わらない。

会ではほかに貧しさと犯罪を犯す確率の相関と情状などについても議論がかわされました。

↓おまけ、今回のホワイトボード、登場人物一覧…


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