「Bad communication ?」

平成29年5月
「アメリカンスクール」小島信夫(ページ数は新潮文庫第22刷版)


全部で8編の短編からなるアンソロジー。会では、特に「アメリカン・スクール」「小銃」「馬」の3編について話しました。


「アメリカン・スクール」
ずいぶん昔に、友人と海外旅行に行った時のこと。
食事を食べそびれて、カップ麺を買ってホテルに帰って食べようとしたとき。
…箸をもらってくるのを忘れたことに気がついた。確かに、レジの脇に割り箸が置いてあったのだが。
たまたま、一膳だけ持ってきた割り箸があったが、どうやって食べたものか。
一本の箸をさらに折って、短く二膳にするか、長い一本ずつで麺をすするか、それとも、一人が食べたあと、次の人がそれを使って食べるか…
カップにはすでにお湯を入れてしまった。考えている時間はあまりない。
さあ、どうする…
という経験をしたことを思い出しました笑

伊佐はどうして英語を話したがらないのか?英語教師のくせに。
「日本人が外人みたいに英語を話すなんて、バカな。外人みたいに話せば外人になってしまう。そんな恥しいことが…」p259
漢字を使っているからといって、日本人が中国人になってしまわないことを考えれば、これは愚かな考えと分かりそうなものだけれども。
敗戦は、知識人にも大きな混乱をきたしたことだろうけれど、とりわけ敵性言語である「英語」を仕事に選んでしまった人々の混乱ぶりはひときわ大きかったのであろう。
いま読んでみればこの小説は単に滑稽なストーリーにしか見えず、文化的な危機感や皮肉のニュアンスは感じられない。
未婚の女が他人が使ったあとの箸をねぶるような、日本文化に対して卑しさを感じていた頃の風景を切り取った小説である。
ちなみに、カップ麺はホテルに備えられていたフォークで食べました。


「小銃」
私が大学生の時、一般教養の文学の講義で扱われた小説。たいへん懐かしい。
この作品は、作者の事実上の処女作でもあるらしい。
作中では、「守るもの」:「守られるもの」の関係が多数現れる。
小銃:主人公
内地の人妻:主人公
軍隊:主人公
母体:胎児
あるいは、軍隊:日本の国(国民)、などの連想をしてもよいかもしれない。
銃はしばしば男性器に例えられることがあるが、この作品ではさながら女性の体、女性器になぞらえて描写されている。
主人公は、自分に割り当てられた小銃の、ちょっとした癖まで知っている。「弾倉の秘庫をあけ、いわば女の秘密の場所をみがき…」(p124)という具合に。
母体と胎児つまり妊娠している女性は、内地の人妻と、中国人とが作中で描かれている。
射撃が優秀であったからこそ軍隊で可愛がられた主人公。しかし、軍隊では射撃は人を撃つためにこそ有用であるのだ。
可愛がられるための道具が、守るものと守られるものの平和な関係を壊すとき、壊した者の平和も失われる。
安寧な関係を破壊することを強要する戦争の怖さが描かれている。
本作は、基本的に主人公の内的独白で地の文がつづられていくのだが、しばしばちょっとした違和感を感じる表現がある。
たとえば、小銃の部品を失くしたと責められた事件の後日の出来事について。
p137の最後から。
「私は班長のかんげきの言葉をよそに、とつぜん笑い出すとイ62377を放り出した。私は銃を放り出す習慣が身についていたのだ。『きさま血迷ったか、かしこくも』あとは天皇陛下のことにきまっていた。私は頬を軍靴でおさえられながら叫んだ。『このユウテイは、班長どの、あの兵隊のなくしたユウテイであります。イ62377のユウテイではないのであります』」というふうに、事件を事後的に振り返るのではなく、時系列順に発生した出来事を書くように、書き方を変えてくる。ここは、「私は小銃に触ってみて、自分の失くした部品が使われていることにすぐに気がついた。誰かが私の小銃から盗っていったのだ。私は馬鹿馬鹿しくなって、つい小銃を放り出してしまった。放り出す癖がついてしまっていたのだ。班長は激怒して私は殴り倒して、顔を軍靴で踏みつけた。」と書くのが一般的であろう。しかし、こう書くと「馬鹿馬鹿しくなって」「激怒して」と、行動を取ったことに対する理由を挟み込んでいかないと文がうまく続いていかない。
わざわざこのような捻った表現を使う理由は何であろうか?
ここで班長が「激怒」するのは当然だから、状況を描写するだけで分かるはずだ、というのが答えのひとつかも知れない。
私が推測するのは、この状況での班長の気持ちに「激怒」という言葉をここで当てはめてしまうと若干の誤差が生じてしまうからではないかと思った。
つまり、班長は主人公に対して始めの頃は優秀な兵隊で期待をしていて、その期待というのは主人公自身の幸福にもつながるけど自分の軍隊内での評価が高まるという面もあり、それが今やだらしない落ちこぼれの兵隊に成り下がり、腹立たしいのと情けないのと悲しいのと、といろいろなやるせない気持ちがないまぜになったものであるはずだ。
これを激怒とだけ書いてしまうのはうまく読者に伝わらないのではないか、という懸念が作者にはあったのではないだろうか?


「馬」
村上春樹さんが、若い人が読むべき本として推薦されているとかで、参加者の中にもそれで読んだという方がいらっしゃいました。
参加者のみなさんからは、
「男女の立場が逆転しているとしっくりくる」
「僕(主人公)の価値は何もない、という感じで不気味」
「前の朝鮮総督の家があった土地の上に家を建てている、ということで戦前の上に立つ戦後、というニュアンスを感じた」
などの感想が出ました。
馬とは何か、家とは何か、ということも議論になりましたが、明確な答えは出ませんでした。
(村上春樹さんの著書の中に若干の解説があるとのことなので、関心がある方はどうぞそちらを参照下さい。)
小銃でも描かれた「男を支配する女」がこの短編でも描かれている。作者が描きたいモチーフのひとつなのだろう。
よく分からにうちにグイグイ引っ張られて行く先には、またもや地獄が待っていたりしないだろうか?どことなく、薄気味悪さを感じさせる。

↓おまけ、今回のホワイトボード…


トップページに戻る