「コンビニ人間は、近代的自我の行く末か?」

平成28年9月
「コンビニ人間」村田沙耶香



村田沙耶香「コンビニ人間」(ページ数は、文藝春秋誌2016年9月号)

ストーリーはそんなに長くはなく、平易である。
Q1、本作を映像化するとしたら、古倉さん、白羽さんは誰が演じるか?
Q2、古倉さんの振る舞いや考え方で、あなたが特におかしい、と感じた点を2,3挙げてください。
Q3、本作では、要するに「コンビニ人間」を肯定していると思いますか?それとも否定している?
といった質問を会では司会から投げかけました。

Q2の答えとなり得そうなのは、
1、子供のころ、死んだ小鳥を食べたらよいと思い、そう発言した。
2、子供のころ、喧嘩をしている男の子たちをやめさせるのにスコップで殴りつけた。それが合理的という旨の発言をした。
3、ヒステリックな女教師を黙らせるのに下半身を裸にした。そうすれば黙るというのを映画で見た、と発言。
4、赤ん坊はすべて同じに見える。だから、近くの赤ん坊に会いに行けば十分な気がする。
5、他人の持ち物のブランドを見て、同じブランドを購入する。
6、コンビニ店員のビデオマニュアルがどう振る舞えば良いかわかりやすいので助かると考えている。(普通は面倒くさい?)
7、離れていても、コンビニと繋がっている。P425
8、ほとんど怒らない。
9、回数や時間にこだわる。「底辺と4回言った」「コンビニ開店してから何万日経った」
10、結婚できないと言われないように、言い訳のためによく知らない異性と同棲する。
11、人間に対して食事を提供するのを「餌をやる」と言う。
12、冒頭の部分はじめ、音に過敏である。最後に至っては「コンビニの声が聞こえる」P479となっている。
参加者の皆さんも、おおむね上記の答でした。ただ、「特におかしいとは思わない」という方もちらほらいました。

…しかし、上記1〜12の振る舞いや考え方は、言うほど変ではない気がしませんか?このくらいの人はけっこう居るような気もします。

白羽さんとの同棲は、古倉さんには言い訳に過ぎないつもりだったかもしれないけど、状況は大きく動いた。
みんな全力でディスっていた白羽さんを、犯罪者一歩手前、とまで言っていたのに、飲み会に呼んで来い説教をしてやる、などと言ってはしゃぐ。

そう、そして飲み会。
みんな古倉さんには黙ってこっそり飲み会をやっていた、という衝撃の事実。一番の古株の古倉さんを差し置いて。まあ、古倉さんには衝撃でも何でもなく、それゆえ例によって怒るに及ばず、ということだろうけど…

さて、こうして見ると、古倉さんと「普通の人」、どっちの方がヘンなんだか。
ヘンかどうかはおいておくにして、どっちの方がイヤな奴なんだか。
仕事よりもゴシップに夢中になる「仲間たち」を目の当たりにして、「二人ともどうしてしまったのだろう」462P上段と、むしろそのことに衝撃を受ける古倉さんは、私には愛おしい。
もし、古倉さんが、一介のコンビニ店員ではなくて、プロゴルファーとか有名漫画家だったりしたら、
「調子が良いときはボールから声が聞こえるんですよね」「ノッてくると、登場人物が勝手に喋り始めます」なんて言っても、
さもありなん、さすが天才、などと持て囃されるのではないだろうか。
日本の良質な労働は、古倉さんのような人によって担保されているというのになあ…

みんながコッソリ飲み会をしていることが露見して、古倉さんはうわべだけの関係しか築けていなかったことがあからさまになったり、ラストでコンビニの声が聞こえてくるようになった古倉さんを表現するのがイマイチ不十分だ、との手厳しい指摘あり。
まあ、書き割りの裏側が見えてしまったような空々しさや、ラストのパワーアップした古倉さんの逞しさが描かれていれば尚よしかな、とは思いますが。
ほかに、古倉さんはグレーゾーンがない性格なので感情移入できなかった、ギャグ小説にしか見えなかったなどの意見がありました。
参加者の皆さんの労働経験によって、多面的な見方ができるのだなあ、と気づかされました。


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個人を消し去って画一的な労働を要求されるコンビニ人間は一昔前のモーレツ会社人間(毎日が日曜日の扶桑商事の社員とか)とどう違うか?
近代的自我(私とは何なのか、私と他者はどう違うのか)の欠如、という意味において、現代文学へのアンチテーゼという面も持つと私は考える。いや、コンビニ人間こそが、ついに到達した近代的自我なのかもしれない。
コンビニ人間を批判するくせに、店舗で行き届いたサービスを当然のごとく享受するのは矛盾している。現代日本では、高い同質性を要求する労働がほとんどだ。それを実践している労働者がいるから、高度工業社会が営めているはずだ。すべての労働者はコンビニ人間である。それなのにそのことから目をそらそうとする、現代日本人への告発。
そしてすべての労働は愛である。愛情深い日本の労働者の賛歌とも読める。


自分らしさを消そうとすること。
たとえば、連歌をするとき、他人と協力をして定型詩を作るという作業において。自分が思いついた突飛なイメージを詠みこんでしまうと、次の人が戸惑って困ってしまうかもしれない。だからうまい思い付きも押し殺さざるを得ないことがある。自分らしさを消して、汎用性のある状態で手を渡すのが、次の人の作り易さへの配慮ということだ。ところが、ある有名歌人によると、自分らしさを消したときこそ、却ってその人らしさが出るものだ、というのだ。
引き算の結果、残ったものがその人の核ということ。
足し算や掛け算の人生がもてはやされている。でも、これだけ豊かな時代だもの、引き算の人生も良いかも知れない。


ところで、掲載された文藝春秋誌では、「コンビニ人間」の後に、広告ページを挟んで佐藤優さんが「毎日が日曜日」を推薦する書評を載せている。1970年代の商社を舞台にした経済小説。このタイトルは流行語にもなったそうです。印象的なフレーズ。自分の時間が無くて大変だなあ、などと言って頭を書きながら仕事に没頭するモーレツ社員(死語ですね…)。サラリーマンが出世コースから外れる、またはパッとしないまま定年を迎えると暇ですよ、という皮肉な反語的タイトルです。
家庭(プライベート)と仕事との両立の難しさが描かれています。
アイデンティティーの確立、という観点で見た場合、他人と交換可能な立場で仕事をするサラリーマンは苦悩を感じるだろうか。「コンビニ人間」も「毎日が日曜日」も、作中では明確な答えを出していない。しかし、ここに焦点が当たること自体、昔も今も日本人の本質的部分は変わらないんだなあ、と思わせられました。


↓おまけ、登場人物の関係図…


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