「日本式マジックリアリズムの誕生」
平成28年3月
「死んでいない者」滝口悠生、「異類婚姻譚」本谷有希子
「死んでいない者」(ページ数は文芸春秋誌2016年3月号)
さまざまな人の視点から、通夜のおそらく6時間程度の物語が語られる。
さまざまな人、と書いたが、登場人物以外の視点で語られる場面もあり、面食らうがストーリーを追うのは困難ではない。
ただし、やたらと故人(通夜の主役たる故人の名前は明かされていない。たぶん。読み落としてなければ。)の親戚が登場し名前が羅列されるので紛らわしい。
通夜というものは、本来故人にゆかりのある人々が集まって、故人との生前の交わりを偲んで弔うものであるが、実際の通夜は、得てして故人のことはそっちのけで一族の同窓会さながらになってしまいがちではなかろうか。
この小説のテーマは、そのあからさまになった人間の本音と建前の齟齬を揶揄して皮肉っている、ということが第一義的にあるようだ。
そしてこの小説が面白いのは、その齟齬はどうして生じるのか、ということにも踏み込んできている点だ。
1、たとえば、P450上段10行目。美之が不登校になった理由について母親の多恵が美之の友人たちに問う。友人たちは答えられない。
2、P475下段後ろから4行目。寛の性格について、噂が現実と遊離していることについて、寛の子供は「どれも嘘じゃないが、どれも寛のごく一面でしかない。」と語る。さらにP480付近では寛の近況につき、特別な事情があるから大人が隠しているようだ、ということで「刑務所にいる」「ホームレスになっている」「病気して入院している」その他の説が子供たちの間で囁かれ、尾ひれもついて噂が流されている。(しかも、読み進めるとどうも大人たちも寛の近況消息を知らないようだ。)
3、兄弟の間での合一感について、妹が、兄と特別な意識で分かり合えるのだと周囲の者に言うと変な目で見られるが、この説明では十分説明したとは言えない。P491下段11行目「ふたりの間にはもっと複雑で曰く言いがたい関係が、蜘蛛の巣みたいに意味もなく美しく広がっている」と妹は主張する。
上の1、2、3のような表現が作中には多数見られる。
私は、この作者はきっと言葉が伝える力というものに大変懐疑的で、言葉はあやふやで頼りないものだと確信して、でもその言葉を用いて小説を書くのだ、と決意しているように思えた。(あやふやで頼りなくても、小説家は言葉によって表現せねばならないのだけれど…)
エリザベス女王のご機嫌は?という理論がある。
ある物語において、エリザベス女王が家臣からのある報告を不快に思った、ということ表現しなければならないが、実際にはエリザベス女王がその報告を受けた時に無表情であったと場合。作者は事実の通り書かず、その報告を聞いた女王は、不満を口にしたり怒りの表情を浮かべたことにしてしまうのだ。そうしなければ作者は女王の気持ちを読者に伝えることができない。つまり言葉で物語を紡いでいくというのは、物事のきっかけや原因を単一化し、言葉で明示可能なものにするために、とかく実際や本来の姿を曲げてしまうというものなのだ。
P456上段15行目「誰もいないことを誰も見ていなかったし、誰もいないのに飛んでいる球も、川のこちら側からは見えず、誰も見た者はいなかった。」
記憶の辻褄が合わないことに思い当たって、P504下段15行目「その時祖父がそう考えていると思ったことを、祖父の声で記憶しているのかもしれない。」
上の例だけではなく、みんな記憶は曖昧であることが作中では表されている。
蒸発夫婦の理恵子が祖母の葬儀の時にお骨を拾わなかったことについて。子供を置いて蒸発するような薄情な人間だからだ、と理恵子に対して批判的な評価であったが、後になってから、つわりの時期であった可能性が高くやむを得なかった、擁護的な評価に塗り替えられたりする。
原因と理由が結び付けられ、その連鎖で小説は書くものである、と私たちはとかく思い込まされているが、現実の世界はそんな明確なものではない。子供がお父さんに叱られたのは、子供が学校で窓ガラスを割ったからだ、と言えば分かり易いけど、それはきっと嘘だ。現実のお父さんは、学校に呼び出され怒っている先生の前でどうすればよいか分からないのでとりあえず叱っておいたとか、叱ってみたら予想外に快感だったのでもっと叱ってみたとか、仕事で疲れていたとか、おまけに通勤列車も満員だったとかちょっと便秘気味でイラついていたとか、…無数の原因があるはずなのだから。すべての小説は嘘八百を並べているといっても良いかもしれない。
じゃあ、いっそのこと嘘を並べまくって、辻褄が合わないことを書き綴っても良いではないか、というのがいわゆるマジックリアリズムである。この手法は、コロンブスの卵的発想ではあるが、現代文学の根本的手法を否定し、また正と否を問いつめ続ける現代社会に対する風刺という意味合いすら帯びているところにインパクトがある。
本作も、辻褄の合わないことだらけで、最後に誰が鳴らしたのか分からない寺の鐘が鳴り響く。幻想的なシーン。日本式マジックリアリズムの誕生と言って良いと思う。
↓おまけ、登場人物の関係図…
「異類婚姻譚」
夫が気味の悪い女言葉を使うのは、働きたくない、専業主夫をしたい、ということの伏線だった。
ラストで夫が芍薬になるのは今ひとつ意味が判然としないけど、参加者から「女装するようになった、とかそんな感じですかねえ」との指摘あり。
ここであからさまに夫が女装するようになった、なんて書いたら女装趣味を否定的なニュアンスで書くことになるからこう逃げたのかな、と、みんなで一応納得しました。
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