「恐るべし、芥川賞選考委員!」

平成27年9月
「火花」又吉直樹、「スクラップアンドビルド」羽田圭介



「火花」又吉直樹、「スクラップアンドビルド」羽田圭介(ページ数は文藝春秋誌2015年9月号)

 当会では毎回芥川賞の発表があったら、最新作を取り上げることにしているのですが、今回は受賞作が2作ということで、初めて1回で2作品を扱うことになりました。
 両作品を行ったり来たりしながら3時間近く議論しました。

「火花」
結論から言うと、いまひとつな作品、という意見の人がほとんどでした。
まず神谷という人のキャラ設定がよく分からない。はじめのほうでは徳永に「笑いの神様」のように崇められる存在、ということだったのに、途中から徳永がテレビに出たことに神谷が意見したり、徳永のファッションを神谷が真似たりしたことを、徳永が咎めるのだが、その理由が判然としない。唐突な感じがする。しかも、神谷が豊胸手術をしたことを徳永がきつく叱っている。この時点で、徳永は神谷を崇めているのだろうか?p326上段では「情熱を預ける対象」とまで言っているのに、p396下段では「ただ幸せになって貰いたいだけ」になってしまっている。見下した視点になっている。 作中の漫才やコントも、面白いものとそうでないものが書き分けられていることになっているのだが、正直、すべて面白くない。だから芸人としての能力の違いが書き分けられておらず、話が理解できなくなってしまう。(p390上段で、「笑わせてあげられなかった人ごめんなさい」と先回りして謝られてしまっているのに、恐縮だが。)
お笑い論も、ちょっとありきたりな気がする。「子供から老人まで笑わせることの難しさ」とか「本当に面白い人は普段の生活でも面白い」というのは、古くから語られていることではないか。
また表現が大袈裟な割に、場面の描写や場面転換が単調で読みにくい。
たとえば「雨が降っていないのに傘を差すという行為に託することが最善であると信じて疑わない純真さを、僕は憧憬と嫉妬と僅かな侮蔑が入り混じった感情で恐れながら愛するのである。」(p336上段)は、「託する」や「信じて疑わない」は過剰な表現だと思う。
比喩の的確さや、印象的な場面をびしっと描くという点は良い部分もあった。
冒頭のみんなに注目される花火と、誰からも見向きもされない漫才、という対比などはとても印象的である。

「スクラップアンドビルド」
参加者皆さん、「こんなおじいさんがいたら大変だろうな、と思う」という感想を抱いていました。現に、このおじいさんは健斗の家に来る前には健斗の叔父の家で養われて、介護に疲れさせて一家崩壊にまで追い込んでいる、という経歴があるというほどだから、無理からぬことである。
現代の若者代表たる健斗と、高齢化問題の深刻な部分を体現していると言っていい認知症の爺さん(名前がないのは、交換可能・誰にでも起こり得ることを言いたいのか)の対比を描いている。 力をつけていく若者と壊れていく老人、というと分かり易いのだが、この現代の若者・健斗は、職にあぶれ引きこもりがちで、付き合っている恋人はすぐにいじけるいまいちな女の子で、デートはラブホから松屋、というイケてなさである。
だから、健斗は爺さんや彼女を見下すことで心の安定を得ている、つまり依存している始末である。
爺さんは壊れているといっても、甘えられる相手は徹底的に甘えて利用し、見え透いた出まかせをいって常に楽をしようとする。「こんなにつらいなら、じいちゃんは死んだほうがまし」などと同情心を買おうとする。異常なまでに食べ物に執着を示す。丹羽文雄が「厭がらせの年齢」で言ったところの「ごはんを食べる化け物」の状態である。
健斗はそんな爺さんを見て「家族は疲弊するし、社会には経済的負担になるし、何より本人が『死にたい』と言っている」ということを言い訳にしてじいさんを「安楽死」させようとする。つまり、本人の思うとおりに楽をさせて、活動機能を劣化させて早く死なせよう、という方策に出るのだ。

しかし、健斗が爺さんを入浴させているときに、はずみで爺さんを溺れかけさせてしまう。その時、とっさに健斗は爺さんを助け、助けられた爺さんは「死ぬとこだった」(p458上段)と言う。
本音では、殺したくない、死にたくない、ということがあからさまになる。
その後、健斗は単身赴任に出ることが決まって爺さんの世話からは解放される。
爺さんとの交流の中で自分は「ひどく不安定な存在だと」(p460上段)気付かされ、これからの生活についても「あらゆることが不安だ」(p460下段)と思えるようになった。自分の不十分さと向き合えるようになったのだ。
積乱雲の中を飛ぶ飛行機のように、先が見えない不安を抱えながら、健斗も良き経験を積んで成長していけるだろう。
ただ、この作品は、最後は若者と老人が離れて暮らすことになった点が、読者としては少しずるいな、と感じました。丹羽文雄や有吉佐和子の「恍惚の人」は老人が死なないと解決しない、という強烈な告発をした。そしてその分ひどい批判を受けたとも聞くので。

で、議論の中で、爺さんは普段から「死にたい」と何度も言っているのに、溺れそうになって助けられた後「死ぬとこだった」というのは、両作品を通じて一番笑えるところだった、そうか、「本当の漫才師というのは、野菜を売っていても漫才師やねん」(「火花」p324下段)というのは、この爺さんのことを言っていたのか!とみんなで膝を打ったものです。 「火花」は、「スクラップアンドビルド」と通して読むべき作品として、2作品が受賞になったのか、とみんな納得していました、たぶん(^_^;)



ところで「火花」を担当した編集者は、「又吉さんによって純文学は活性化しましたし、純文学を読むことへの憧れが一般的な読者にもまだ残っていると教えられました。」などと語ったそうだ。
…なんというか…
この言い方だと、又吉さん以外の純文学者に失礼だし(率直に言って、又吉さんより実力がある人は大勢いる)、純文学を読むのは憧れによってではないし…
近年の純文学の不毛の原因が、このコメントに集約されているな、と感じてしまったり。
編集者は優れた作品がどういうふうに凄いのか、よく理解してもっと一般読者にアピールしないといけないのではないだろうか?解説や議論を恐れてはいけないと思う。
それから、「気遅れ」(p341上段)なんて誤字をちゃんと修正してあげないと。


個人的には、本を読む人はここ数年でまた少し増えたのではないかと思う。
スマホが普及し始めたとき、通勤の電車内では文庫本を読む人はほんとうに見かけなくなったが、最近また文庫本を広げている人が増えてきている気がする。

そうそう、実は私自身は又吉ファンです。うちのテレビ番組表で、番組検索ワードに「又吉」が3年ほど前から登録されているほどです!オイコノミアも初回から見ていますから。
今回も充実した議論ができました。
参加者の皆様に感謝申し上げます。

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