川上弘美「蛇を踏む」(文春文庫)
歩いているときに、そうそう蛇を踏むことなんてまず無い。
仮に蛇を踏んでしまっても、「踏まれたので仕方ありません」と声がして蛇が女の姿になるなんてことは、ますます有り得ないだろう。
しかしヒワ子は蛇を踏み、その蛇は女に化け、「ヒワ子ちゃんのお母さんよ」「いつも知らないふりをしている」などとわけのわからないことを言ったり、
嫌なことばかりをえぐったりする。
さて、ここで疑問が浮かぶ。蛇は本当についうっかり出会いがしらに踏まれてしまったのだろうか?
秋で蛇の動きが鈍くなっていたから、などと理由が述べられているが、実は蛇はわざわざ「踏まれに行った」のではないか、と勘繰ることもできる。
そのあと蛇は「踏まれたのでおしまいですね」「おしまいですね」「踏まれたので仕方ありません」と言って女に変身する。
「踏まれたので」…
はて、…
注文の多い料理店ではないが、この「踏まれた」は、受身ではなくて尊敬と取ることもできるのではないか?
つまり、「私が踏まれたので、私がおしまい」なのではなく、
「あなたは私をお踏みになりましたね、ですからあなたがおしまいです」の意味ともとれないか??
もし、「偶然に、出会いがしらに」ヒワ子が蛇を踏んでしまったとしたら、
蛇(およびこれが化けた蛇女)によってもたらされた変化は外的な力によるものということになる。
逆に、蛇を踏んだことは運命づけられた、あるいは仕組まれたことであったとしたら、
そのあとに起こったヒワ子の変化も、ヒワ子に内在する力によって起こった運命づけられた変化と言えるかもしれない。
つまり、ヒワ子の意識下に抑圧されたものが、ヒワ子自身の力で噴出してきた変化なのかもしれない。
そうであるなら、蛇女に指摘されるさまざまなこと、「知らないふりをしている」とか、「求められてもいないことを与えてしまう」などという問いかけは、
ヒワ子自身が抱いていた矛盾や疑問であると考えられる。
このように見ていくと、冒頭の「踏まれた」の受身と尊敬の二通りの読み方は、
ちょうどヒワ子の意識と無意識に対応しているようで、興味深い。
ところで、蛇は一般的にはよくセックスや性欲の象徴として用いられる。
男根に似ていることや、蛇の交尾はつがいが絡まりあったまま長時間に及ぶため、であるかららしい。
そんな蛇に文字通り絡まれてしまうヒワ子は、不幸なのだろうか?
そもそも、どうして蛇はヒワ子のところにやってきたのか?
もう一人の蛇女、ニシ子さんは、コスガさんと駆け落ちをしている。
ヒワ子は、彼女自身は周囲に対して迷惑な振る舞いはしていないが、曾祖父が鳥女の元に出奔した経験がある。
鳥女は、甲斐性のある男と一緒になり、きちんと巣を作ろうとする習性があるようだ。
家庭や秩序を重んじる性格なのだろう。それに対して、蛇は相手に合わせて変化することができるようだ。
あまり既存の秩序にもこだわらない。それに「蛇の世界はあたたかくて居心地が良い」らしい。
そうすると、ヒワ子のもとに厄介な蛇が現れて踏んでしまったのは、もしかしたら曾祖父の出奔の呪いとも考えられる。
でも、この「呪い」は、蛇に出会ってしまったのは運命づけられていてヒワ子自身が無意識のうちに変化を求めていた結果であるとするならば、
実はヒワ子自身が心のどこかに持っている秩序に従わず自由に生きたいという気持ちの表れとも解釈できる。
そうしてみると、蛇の出現はヒワ子にとって「呪い」というよりも「解放」というべきものなのかもしれない。
ヒワ子は「鶸(ひわ)」(スズメの仲間の小さな鳥)や、「卑猥」に通じ、ニシ子は「ニシキヘビ」を連想させる。記号論的な読み方も出来よう。
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