「誰もがうらやむような暮らしでも、それが自分に馴染むとは限らない。」
柴崎友香「春の庭」(文芸春秋誌)
「第151回(平成26年上期)芥川賞受賞作品。
この小説では、おもにあるひとつの家について淡々と描写が続いていく。
それからその敷地に隣接して建つアパートも描かれ、
その丁寧さや取り巻く状況についてはこの小説の登場人物と同じくらいに詳しく描かれている。
まるで、この家が主人公であるかのような印象を受けるほどである。
人々の生活の入れ物たる「家」は、そこに住む人の形に合わせて作られるはずである。
家に限らず、人が使うモノは、使う人に合わせて作られている。
少なくとも私たちはそう信じているのではないだろうか。
ところが、家について考えてみると、その家を一番初めに使う人たちが発注し、
発注した人たちの都合に適うように作られるはずである。
しかし、時間が経ち、使用者(あるいは所有者)が変わってしまう場合がある。
この場合、家は「不動産」というくらいであるから、そう簡単には動かせない。
動かせないとなると、人のほうが動いて、自分の使用目的に適う物件を探さねばならない。
そうすると、さながら家のほうが住む人間を選んでいるかのような状況が出来上がってくる。
まるで家が意思をもって住む人間を選んでいるかのようである。
物である家もそこに永遠にあるわけではない。形あるものはいずれ崩れる。
主人公の住むアパートの、干支の名前がついた部屋が欠けてしまったように。
トックリバチの巣が空っぽになっているように。
状況が変わると、人は住む環境を変えていくのだ。離婚によって、転職によって、転勤によって。
あるいは、父親が亡くなって実家というものもなくなった場合。
そして、家や生活を変えても、みんながその生活に馴染むわけではない。
「誰もがうらやむような暮らしでも、それが自分に馴染むとは限らない。」(P428 下段)
この小説を読み終えて、最後の警察が来ているシーンも印象的だったが、
主人公・太郎が亡くなった父親の骨を岬に撒いたり、子供の抜けた乳歯を家の屋根や床下に投げるというのは、
人間が土に帰ってその場所に染みこんでいくような感じがあらわされて強く心に残った。
それぞれの土地には、それまでそこに生きていた人たちの気配が残っていることを思った。
今回も参加者の皆さんのおかげで活発で有意義な議論ができました。
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